落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2017年11月26日日曜日

2017年11月20日月曜日

「四段目」(第73回志ん諒の会・20171119)




(ネタおろし#116) 「稽古屋」(第73回志ん諒の会・20171119)




志ん諒のひとり言 その 9

 落語とは何でしょう。
 前回は落語における感情表現の仕組みと使い方について考えました。今回はその使い方をもう少し広げて考えてみます。

 落語には舞台装置がありません。演劇舞台の書き割りや大道具のようなものはすべて言葉で出現します。そこにあるものを説明するのではなく、言葉で出現させるのです。ここがドラマや演劇のナレーションと似て非なるところです。
 「船徳」で桟橋の場面や「百年目」で船から土手を見た景色を表現する場面などがいい例です。
 「船徳」では、「どうだいこの景色。ほぉら風が違うよ。やっぱり川を渡ってくる風は違う、ねぇ、涼しいよ」と、登場人物が語ります。
 また、「百年目」では、「障子をぱぁっと開けますってぇと、もぅ土手は満開の桜でございます」と、落語家が自分の言葉で語ります。
 この場面、実は「百年目」の見せ場です。お花見の明るく華やかな情景を想起してもらうところです。
 ですが、文字を追っただけの説明ではお客は「ああそうなんですか」といった感想を持つくらいでしょう。
 そうではなく、春の暖かな風に桜の花びらがチラチラと舞う一面満開の桜色に染まった景色のようにお客に感じてもらうために、落語では直接感覚に訴えます。
 状況を説明するのではなく、状況から感じた感情を提示することで、お客はその感情を自らの感情に置き換えて、その感情から引き出される状況を想起します。
 状況をいろいろと説明するとお客の想起する状況と違うものがあったりするとお客は「おゃ」と疑問を持ってしまいます。そんな情報は余計なものです。
 この場合、落語家はお花見の感情を提示することに集中する方が、情景の詳細な説明という余計な情報に邪魔されることなく、お客はそれぞれが持つお花見の情景を想起できるでしょう。
 ここで気付かれた方もいらっしゃるでしょうが、落語で大切なのは作られた状況を正確に話すことよりも、お客が自らの中に、状況を作る余白をできるだけ大きく取って話すことです。
 その手法のひとつが感情で状況を表現することです。しかし、余白を大きく取る、すなわちそこからお客が世界を広げながら状況を作るための手法は感情表現ばかりではありません。
 「船徳」での、「四万六千日、お暑い盛りでございます」など、様々なものがありますが、それらについては章を改めて考えたいと思います。
 次回は、いよいよ、感情表現が落語の本質である人間関係にどう働くのかを考えます。ではまた。

         (来月につづきます)

第73回志ん諒の会