2017年6月19日月曜日
志ん諒のひとり言 その4
落語とは何でしょう。
落語がどんなものかなんて、まぁ考えなくてもいいことです。考えたからといってどうなるものでもありません。でも、たとえば、思わず口ずさむような好きな曲が「こんな意味だったのか」と知ることは楽しいことです。そしてもっとその曲が好きになることもあるでしょう。
落語を考える連載も4回目ですが、まだまだ落語の「イロハのイ」です。
まずは落語の周囲を見まわしています。すると、落語がとても変な環境で話されている事に気づきます。
その落語の環境を空間と時間とに分けて考えて、前回はそのうちの空間がどんなに変なのかをお話ししました。
で、今回は次の落語の時間がちょっと変なことにつてお話ししましょう。
落語には二つの時間が存在します。それは話し手の時間と聴き手の時間です。そう、落語家とお客様とでは違う時間が流れているのです。
「おや、おっそろしくなげぇ魚だなぁ、ん、なんだ、魚じゃねぇや、紐だ、なんだ、おっとなんか先についてるな、よっと、ん、よっ、おっとなんでゃこりゃ、きったねぇな、ヌルヌルしてるぜ、ん、こいつぁせぇふかな、ちげぇねぇ、革のせぇふだ」
ご存じ「芝浜」から、明け方、浜で財布を拾うところです。
このとき、話し手の時間は常に聴き手より一歩先を行きます。
それは話し手の革財布の描写を受けて、聴き手が自分自身の内に革財布を造り出すからです。
そして、聴き手が汚いヌルヌルした革の財布を思い描くには少しですが時間がかかるんです。
話し手は話しを先に進めたいのですが、聴き手に汚いヌルヌルした革の財布を思い描いてもらわなければ先に進めません。
そこで聴き手が思い描くまで話し手は先に進まずに待ちます。つまり、聴き手が追いつくまで待つのです。そして、聴き手が追いついたところで、話し手はまた話しを進め、また一歩先に進みます。そしてまた立ち止まって聴き手が追いつくのを待つのです。
この待つ時間が「間」です。
これは話し手と聴き手とを外から見た時間のことです。では、それぞれの内なる時間を見てみましょう。そこには更に驚くことがありました。
実は、話し手と聞き手とでは時間の進む速度が大きく違うのです。それは同じ1分でも、話し手にとっては1分はかなり長く感じますが、聴き手にとっては1分はほんの一瞬に感じています。
例えば、「今戸の狐」のクライマックスのことです。
ヤクザが博打の「狐」を見せろと言っているのに、出てきたのが焼き物の狐。それを見てヤクザが驚きます。この驚く時間を話し手が充分にたっぷりとったつもりでも、聴き手にとってはほんの一瞬のことに感じているのです。
とくに、話し手が話しに詰まった時など、話し手には時間が恐ろしいくらいに長く、まるで時間が停まったかのように感じますが、とうぜんのことに、客にはそんな時間感覚は全くないのです。話し手は秒針を見ながら話しているようなものですが、聴き手は分針すら見ていないようなものですから。
ですから話し手にとっては15分の落語は聴き手の15分よりずっと長い15分なのです。
落語は非日常を描きます。しかし、こう見てくると、非日常を描く落語の環境はそれ自身がすでに非日常なのです。
さて、次回は更に人間関係から落語の「イロハのイ」を考えてみたいと思います。
(来月に続く)
落語がどんなものかなんて、まぁ考えなくてもいいことです。考えたからといってどうなるものでもありません。でも、たとえば、思わず口ずさむような好きな曲が「こんな意味だったのか」と知ることは楽しいことです。そしてもっとその曲が好きになることもあるでしょう。
落語を考える連載も4回目ですが、まだまだ落語の「イロハのイ」です。
まずは落語の周囲を見まわしています。すると、落語がとても変な環境で話されている事に気づきます。
その落語の環境を空間と時間とに分けて考えて、前回はそのうちの空間がどんなに変なのかをお話ししました。
で、今回は次の落語の時間がちょっと変なことにつてお話ししましょう。
落語には二つの時間が存在します。それは話し手の時間と聴き手の時間です。そう、落語家とお客様とでは違う時間が流れているのです。
「おや、おっそろしくなげぇ魚だなぁ、ん、なんだ、魚じゃねぇや、紐だ、なんだ、おっとなんか先についてるな、よっと、ん、よっ、おっとなんでゃこりゃ、きったねぇな、ヌルヌルしてるぜ、ん、こいつぁせぇふかな、ちげぇねぇ、革のせぇふだ」
ご存じ「芝浜」から、明け方、浜で財布を拾うところです。
このとき、話し手の時間は常に聴き手より一歩先を行きます。
それは話し手の革財布の描写を受けて、聴き手が自分自身の内に革財布を造り出すからです。
そして、聴き手が汚いヌルヌルした革の財布を思い描くには少しですが時間がかかるんです。
話し手は話しを先に進めたいのですが、聴き手に汚いヌルヌルした革の財布を思い描いてもらわなければ先に進めません。
そこで聴き手が思い描くまで話し手は先に進まずに待ちます。つまり、聴き手が追いつくまで待つのです。そして、聴き手が追いついたところで、話し手はまた話しを進め、また一歩先に進みます。そしてまた立ち止まって聴き手が追いつくのを待つのです。
この待つ時間が「間」です。
これは話し手と聴き手とを外から見た時間のことです。では、それぞれの内なる時間を見てみましょう。そこには更に驚くことがありました。
実は、話し手と聞き手とでは時間の進む速度が大きく違うのです。それは同じ1分でも、話し手にとっては1分はかなり長く感じますが、聴き手にとっては1分はほんの一瞬に感じています。
例えば、「今戸の狐」のクライマックスのことです。
ヤクザが博打の「狐」を見せろと言っているのに、出てきたのが焼き物の狐。それを見てヤクザが驚きます。この驚く時間を話し手が充分にたっぷりとったつもりでも、聴き手にとってはほんの一瞬のことに感じているのです。
とくに、話し手が話しに詰まった時など、話し手には時間が恐ろしいくらいに長く、まるで時間が停まったかのように感じますが、とうぜんのことに、客にはそんな時間感覚は全くないのです。話し手は秒針を見ながら話しているようなものですが、聴き手は分針すら見ていないようなものですから。
ですから話し手にとっては15分の落語は聴き手の15分よりずっと長い15分なのです。
落語は非日常を描きます。しかし、こう見てくると、非日常を描く落語の環境はそれ自身がすでに非日常なのです。
さて、次回は更に人間関係から落語の「イロハのイ」を考えてみたいと思います。
(来月に続く)
2017年6月13日火曜日
2017年5月22日月曜日
志ん諒のひとり言 その3
「人間関係のファンタジー」。
落語を一言で言うならこう言えるのかもしれません。
落語の魅力は、現実にはなかなかお目にかかれない人間関係だったり、こうあって欲しい人間関係だったりと、そんな非日常の人間関係を味わえることです。
そして、「人間関係のファンタジー」に共感してもらうことこそ落語の目的とも言えるでしょう。落語を話すことで観客にある種の快感を感じてもらうこと。これは演劇や映画とかわりません。
そのためには落語としての話し方があります。
ではその話し方を考えてみましょう。目的は「人間関係のファンタジー」に共感してもらうことです。話し方はその目的に近づく方法です。目的に近づくには様々な方法が考えられます。
山登りに例えれば道がたくさんあるようなものです。どの道を選ぶか、右に行くか左に行くか、道を作って進むのか。もうすでに歩き出しているとしても、ここは一つ、ちょっと立ち止まって、これから歩いて行く落語の地平を見渡してみましょう。
今、落語家が高座に上がりました。高座の前には客席が広がっています。そこには空間と時間があります。
普段意識することのないものですが、どんな空間と時間なのかを見てみましょう。当たり前のことですが、落語を話す空間には聴き手の客と話し手の落語家がいます。
客は複数います。でも、落語を聴いている間は、落語家と客とは一対一です。
客が客と会話することはほとんど無いわけですから、客は落語を聴いている間、落語家と一対一なのです。
さて、人は一対一で向かい合うと反射的に身構えるものです。
なんと落語の空間には、そんな身構えた二人の小空間が客の数だけ連鎖しています。
落語の空間には一人の落語家、見下ろして話しをする落語家、一方的に話しをする落語家がいます。
これでは一見、落語家が主体の空間と外からは見えるでしょう。しかしその実、主体は客の方です。高座の下から何人もで見上げて聴くだけの客が落語の主体です。
ですから、落語会に訪れた客は実は来訪者ではありません。来訪者は客の前に座る落語家の方です。すなわち、ご機嫌をうかがいに来訪してきたのは落語家の方です。客はあくまで、笑って答えてやるという立場です。
高座という壇上で落語家が下から衆目を集めているにもかかわらず、実際は主体は高座の下の客。これぞまさに主客転倒です。
落語の空間は上下が逆さまの空間になっています。
そのうえなんと、落語の時間は驚くことに。空間ばかりか時間までも。さてさて、実に落語は深いものというこの話の続きはまた来月。
(来月へつづきます)
落語を一言で言うならこう言えるのかもしれません。
落語の魅力は、現実にはなかなかお目にかかれない人間関係だったり、こうあって欲しい人間関係だったりと、そんな非日常の人間関係を味わえることです。
そして、「人間関係のファンタジー」に共感してもらうことこそ落語の目的とも言えるでしょう。落語を話すことで観客にある種の快感を感じてもらうこと。これは演劇や映画とかわりません。
そのためには落語としての話し方があります。
ではその話し方を考えてみましょう。目的は「人間関係のファンタジー」に共感してもらうことです。話し方はその目的に近づく方法です。目的に近づくには様々な方法が考えられます。
山登りに例えれば道がたくさんあるようなものです。どの道を選ぶか、右に行くか左に行くか、道を作って進むのか。もうすでに歩き出しているとしても、ここは一つ、ちょっと立ち止まって、これから歩いて行く落語の地平を見渡してみましょう。
今、落語家が高座に上がりました。高座の前には客席が広がっています。そこには空間と時間があります。
普段意識することのないものですが、どんな空間と時間なのかを見てみましょう。当たり前のことですが、落語を話す空間には聴き手の客と話し手の落語家がいます。
客は複数います。でも、落語を聴いている間は、落語家と客とは一対一です。
客が客と会話することはほとんど無いわけですから、客は落語を聴いている間、落語家と一対一なのです。
さて、人は一対一で向かい合うと反射的に身構えるものです。
なんと落語の空間には、そんな身構えた二人の小空間が客の数だけ連鎖しています。
落語の空間には一人の落語家、見下ろして話しをする落語家、一方的に話しをする落語家がいます。
これでは一見、落語家が主体の空間と外からは見えるでしょう。しかしその実、主体は客の方です。高座の下から何人もで見上げて聴くだけの客が落語の主体です。
ですから、落語会に訪れた客は実は来訪者ではありません。来訪者は客の前に座る落語家の方です。すなわち、ご機嫌をうかがいに来訪してきたのは落語家の方です。客はあくまで、笑って答えてやるという立場です。
高座という壇上で落語家が下から衆目を集めているにもかかわらず、実際は主体は高座の下の客。これぞまさに主客転倒です。
落語の空間は上下が逆さまの空間になっています。
そのうえなんと、落語の時間は驚くことに。空間ばかりか時間までも。さてさて、実に落語は深いものというこの話の続きはまた来月。
(来月へつづきます)
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