落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2009年8月18日火曜日

のびのび

たまには落語の話を
しないといけないと思って。
落語の話をします。
といっても、
立派に言えることは
なんにもないんですが。

噺と言えば、
今は首屋と替り目ですから、
「キリンとアサヒ、どちらにします」
「えっ、サントリーはないの。」
すいません。と言ったわけで、首屋です。

初めて、7月1日に
首屋を聞かせていただいたときは、
何がびっくりしたかって言いますと、
笑いどころが実に少ないことです。
「落語って笑えるもの」
と思っていただけに、
正直、これは落語といっても、
練習のための噺なのかな、
と思ったくらいでした。

ところが、その難しさは、
日に日に大きくなっていきます。
いまもその巨大化は
止まるところを知りません。

そうなんです。
落語を構成する要素の中で、
笑いは実は二次的なものだったんです。
つまり、何かがあって、
それが心に響いて、
そしてそのなかには
笑いが出てくるものもあるけれど、
出てこないものもあるというわけです。

情景が見えるという言い方をききます。
けれど情景がはっきり見えなくても、
心に響くことがあります。
それは、もし、
落語に魂というものがあるとしたら、
それが心に響いている
のかもしれません。

いわゆる感動とも違うように思います。
忠臣蔵で感動するのとは違うんです。

きっと、落語は「遊び」だから
なんだと思います。

きっと、落語家は
こう言っているんだと思います。
それは、
「これはね、
すっごく楽しい遊びなんだよ、
だからさ、
一緒にこの楽しさを味わおうよ」
とね。

だから「笑い」が無くてもいいんです。

なんとなく、これって、
色っぽい話に似ていますね。
やっぱり、きたきたと言わないで、
まじなんですから。

つまり、「好きなんだから、好きになれ」
なんて勢いでがむしゃらに迫ったって、
「キモイ」ってとこが落ちですよね。

やはり、「好きなんだ」ということを、
上手に伝えて、
その気持ちに共感してもらう、
これですよね。

そのためには、やはり、
「遊び慣れている」ほうが
上手いわけです。

いえいえ、これはあくまで例えでして、
人間として上手きゃいいと
言っている訳じゃありませんよ。
ほんと。

ですから、
落語も「遊び心」と「噺に遊ぶ」が
重要な要素に思えます。

「遊ぶ」の頭にはよく、
「のびのび」がつきます。
落語が
「のびのび」できたらいいな
と思います。

今日の創作都々逸#15
♪あそばれてるのと おっしゃいますが
あそんでるのは そっちでしょ

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