落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2009年10月27日火曜日

平塚の『こめや』



江戸の頃もきっとこんなふうに見つめられていたのでしょう

今日の創作小咄#48
歌川広重 東海道五十三次 戸塚(元町別道)
 
 ↓ PLAYでは千一亭本当が平塚の『こめや』」でご機嫌を伺います


「おおー、やっと晩飯です、
ご隠居、腹減りました。
まったく、保土ヶ谷から戸塚は
長かったです、
旅籠の『こめや』という字が
見えた時はほっとしました、
ご隠居、
そんなに酒を呑まれては、
空きっ腹に毒ですぞ」

「いやいや、真之介、
まだまだ宵の口、
酔うのはこれからだ。
たしかに長い道であったが、
次の藤沢、さけの平塚までは、
さらに長い。
今夜はゆっくり、
ここ、『こめや』の牡丹鍋を
味わって休め、
ここ戸塚はな、
潮干狩りでも有名だ。
貝も楽しみだな。
ニコラスは、
オランダ人ゆえ、
肉は良く食らうのであろうな」

「はい、しかし、牡丹肉は
食べたことがありません、
イギリスではアーサー王の
イノシシ狩りが有名ですが。
あっ、きました、ほー、
直ぐ出てくるとは、
なるほど、
ま・さ・に。」

「あっ、わかった、
『座れば牡丹』だろ」

「やるな真之介、
では、拙者が鍋奉行を
買って出ます。
えーと、
真之介、そっちの
貝を取ってくれ」

「ああ、
それ、
ん、
ニコラス、
なぜ、貝ばかり
鍋に入れる」

「牡丹は『うり坊』というぞ、
貝がなければ
売りを入れても無駄になるからな、
ですよね、
ご隠居、
ご隠居」

「ん、あ、
貝など入れては
いかんな、
鍋そんなことをする、
牡丹を食いに来たんだぞ、
貝が無いだろ」

今日の創作都々逸#79

鍋と問われて 違うと言えば
憎い憎いと つつかれる

2 件のコメント:

  1. カイの父です。2009年10月28日 8:23

    千一亭本当様へ
    カイです。
    いつも見ていただきありがとうございます。
    ブログ見て返事いただく方はほとんどが犬関係なので
    最初なんだかよくわかりませんでした。
    これは落語を勉強の内容のブログなんですね。
    ゆっくり見させていただきます。

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  2. カイちゃんのお父さん、
    コメントありがとうございます。
    ここんとこ、
    すっかり、
    勉強という思いを
    忘れていました。
    「そうだ、
    落語を学んでいたんだ」って、
    思いました。
    外国語を学ぶのに
    一番いいのは、
    その国に行くことだって
    言います。
    落語を学ぶには、きっと、
    江戸時代に飛んでいくのが、
    一番いいんでしょう。
    いつか、
    「また、ちょくら、
    『こなや』に行ってくるかな、
    あそこの酒は実に美味い」
    なんて、
    そんな日が来れば
    いいですね。
    でも、
    なかなか
    来そうにありません。
    そりゃあ、
    古の人と
    言葉を交わすことは
    出来ないのですが、
    ふと、
    そこに犬がいることに
    気がついたんです。
    動物行動学から見れば、
    長い年月をかけて
    獲得したものが、
    犬の人格の礎と
    なっているらしいです。
    日本人は犬を
    大切にしてきました。
    今書いている咄の頃には、
    綱吉の「生類憐みの令」も
    ありました。
    是非はともかく、
    日本犬は長い年月をかけて、
    様々な形で日本人の
    深い愛情に育まれてきたに
    違いありません。
    そこには、
    古から変わらぬ
    気持ちのやりとりがあるものと
    思っています。
    今、昔の人の気持ちになって、
    落語を演じようとするとき、
    思うことがあります。
    それは、
    犬に向かうときの気持ちには、
    今も昔もないはずだと。
    交わすのは気持ちだけです。
    そんな削ぎ落とされた気持ちに
    立ち返ることが出来れば、
    きっといい落語が
    出来るのではないかと
    思っています。
    たとえ写真でも、
    見つめている犬の目は、
    熊さんや八っつあんを
    見つめていた目と
    かわらないはずですから。
    また、
    是非、
    遊びに来て下さい
    これからも、
    よろしく
    お願いいたします。
    千一亭本当

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