建築は大地の上にある造形芸術 |
「常識と接する空間を作る」
と
唐突に書いてしまった。
実は、落語を建築になぞらえたのは、
単なる直感なのだが、
それは
建築というモノが、
極めて合理性を追求するモノであるが故に、
もし、落語をそのようなアプローチで、
考えることが出来れば、
「落語」という、
実に難解なモノを、
合理的に解体し、
再構成して、
そのモノに迫ることが出来るかもしれないと
目論んでみたのだが。
そこで最初に着目したのが、
そもそも建築の成り立ちは、
地面に横たわる人を
囲んだものという所。
「大地から立ち上がったモノ」
それを無理に持ってきた。
「常識」「日常」「平穏無事」「生真面目」
といった「生活の大地」の上に「立ち上がるモノ」
として「落語」を捉えることは可能だろうか。
だとしたら、
落語の一言一言は
「生活の大地」に
壁を建てていく工程に他ならない。
そして、
その壁を建てることで、
壁の向こうとは違うモノとしての
「非常識」「非日常」「波乱万丈」「能天気」
という空間を
「落語」は作り出しているのではないか。
建築には
造形芸術という一面がある。
話は逸れるが、
「瀬戸内国際芸術祭2010
(Setouchi International Art Festival 2010)」
の数多のイベントの中に落語はない。
落語家の意識が届かないのか、
主催者の意識が届かないのか。
社会の意識が届いていないのか。
話を戻して、
落語にも
建築と同じく、
造形芸術という一面があるのではないか。
そこで、
落語がなにを形造るのかを考えてみたい。
さて、
ここまでくると
芸術ってなんだという事になる。
そこをハッキリと捉えないで、
話は進められないと思う。
ああ、大変なことになってきたゾ。
といったところで
また明日。
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