落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2010年11月10日水曜日

古典落語の現代性




江戸時代の話でも、
落語は現代性を持つと言えるのだろうか。

たしかに、江戸時代は現代と
社会の在りようが遙かに違う。
身分移動は可能だったそうだが、
はっきりとした身分制度があった。
これだけでも大きく違うのだが、

さらに、
江戸の社会の一例として、
落語によく出てくる大家さんを
取り上げてみると、
現代社会との違いが
理解しやすいかもしれない。

江戸の人口120万人に対して
大家さんは2万人。
その大家さんの意味は
現代とは大きく違う。

それは地主や家主から報酬をもらって、
借地や借家の管理をするのが
大家さんの本業で、
さらに、
「5人組」をつくり、
1ヶ月づつ交代で自身番に詰めて、
行政を行う。

自身番とは
町会事務所、
公民館、
派出所、
消防署、
町内の溜まり場であった。

担当した大家さんの仕事は、
お上からの伝達、
人別帳制作、
不動産登記、
揉め事の仲裁、
留置した罪人の見張り、
道路の掃除、
修繕、
夜回り、
火の番、
捨て子、
行き倒れの処理。
簡易裁判所の前の相談所みたいな役目まで、
当番の1ヶ月、
大家さんはこれだけ多忙なのに、
それらに対しての報酬はない。

これだけを見ても
生活の様子がずいぶんと
現代と違うと想像される。

さらには
テレビなどと違って、
実際の与力、同心は
24人しかいなかったのだ。
では
現代の消防、警察にあたるのはだれが。
それが1万人の町火消しだったという。
またその報酬はわずかであったという。

社会が「報酬や対価」で成り立っていない社会が
江戸の社会だった。
江戸では「報酬や対価」ではないモノで
人は働いていたのだ。

かなり道が逸れてしまったが、
ここまで見てくると、いかに
江戸の社会と現代社会とが
大きく違うのかが解るだろう。

したがって、落語の作者が
作品に込めた感情も、
当然、現代では作品から
そのまま受け取ることは
難しいと考えられる。

しかし、前回で考えたように、
落語は聞く側が、
自らの中に感情を再構成するモノであるから、
たとえ、その要素が江戸時代のモノであっても、
自らの中に湧く感情は現代のモノである。
それは
その感情が
自らの現代社会の上に
立ち上がったものに他ならないからである。

だから、古典とされる江戸時代辺りの話も、
そのままで話したとしても、
実に現代的なモノとして受け入れられるのだろう。

いたずらに、今風な事柄を織り込んで、
現代性を出そうなどとする必要は全くなく、
かえって、その落語が本来伝えるべき内容を
損なうことになりかねない。

それは
古典落語はそれ自体に現代性が在る
と思うから。

ここまで考えてきて、
「伝える技」として落語を見たとき、
その技の第一が、
落語という形態そのものであるということに
気が付いた。

ではさらに
技の第二について考えてみよう。
それはまた明日。

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