2010年11月9日火曜日
落語の社会性
人が人に対するとき、そこには感情がある。
だから、社会には感情が渦巻いている。
一方で、
感情と理性は相対するモノとして、
あるいは互いが支配関係にあるモノとして
捉えられている。
また、司る脳の領域も違うと説明される。
つまり、
感情と理性は区別される。
しかし、
こと「芸術」を考えるとき、
実は同じモノかもしれない。
作品には作者がいる。
作者が作品を造る力は感情である。
作者はその感情を作品という形にするため、
理性で感情を様々な断片に分解し、
その断片を埋め込んだ素材で、
作品を造形する。
観察者は
造形された素材に埋め込まれた
感情を、
作品を通して、
自らの中に、
作者の感情を
再構成する。
作品は理性という姿の感情だと
言ってもいいかもしれない。
また、そんな感情が湧き上がってくるものこそ
「芸術」と言っていいかもしれない。
ここには作品と観察者という関係があるが、
これは作者と観察者という人間関係に他ならない。
そして、作者が作品を造る力となった感情は、
作者の人間関係の中から生じたモノであるとしたら、
作品には作者と社会との関係が埋め込まれている。
つまり、
観察者は作品を通して、
作者を通して、
作者の社会との関係に触れることになる。
時を越え、
空間を越えて、
作者の気持ちは
観察者、自らの中に出現する。
さて、
今、寄席で落語を聞いているとしよう。
50人ばかりのお客さんと
一人の演者。
演題は「芝浜」、
いよいよラスト。
今、演者は
そっと湯呑みを置いて、
長い間の後に、
静かに顔を上げて伝える。
「また、夢になっちゃいけねえ」
その瞬間、
寄席に集う51人の気持ちは、
作者の気持ちと同じになるばかりでなく、
一つの大きな塊になる。
一つの気持ちで一つになる。
そこには
和やかな秩序の下に
穏やかな時間が過ぎてゆく。
それが「落語の社会性」だと思う。
作品としての落語は
どのように造形されているのか、
さらに「伝える技」としての
落語を考えてみたいと思うのだが、
それはまた明日に。
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