落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2017年6月19日月曜日

「鰻の幇間」(第68回志ん諒の会・20170618)




(ネタおろし#111) 「お化け長屋」(第68回志ん諒の会・20170618)




志ん諒のひとり言 その4

 落語とは何でしょう。
落語がどんなものかなんて、まぁ考えなくてもいいことです。考えたからといってどうなるものでもありません。でも、たとえば、思わず口ずさむような好きな曲が「こんな意味だったのか」と知ることは楽しいことです。そしてもっとその曲が好きになることもあるでしょう。

 落語を考える連載も4回目ですが、まだまだ落語の「イロハのイ」です。
 まずは落語の周囲を見まわしています。すると、落語がとても変な環境で話されている事に気づきます。
 その落語の環境を空間と時間とに分けて考えて、前回はそのうちの空間がどんなに変なのかをお話ししました。
 で、今回は次の落語の時間がちょっと変なことにつてお話ししましょう。

 落語には二つの時間が存在します。それは話し手の時間と聴き手の時間です。そう、落語家とお客様とでは違う時間が流れているのです。

「おや、おっそろしくなげぇ魚だなぁ、ん、なんだ、魚じゃねぇや、紐だ、なんだ、おっとなんか先についてるな、よっと、ん、よっ、おっとなんでゃこりゃ、きったねぇな、ヌルヌルしてるぜ、ん、こいつぁせぇふかな、ちげぇねぇ、革のせぇふだ」
ご存じ「芝浜」から、明け方、浜で財布を拾うところです。

このとき、話し手の時間は常に聴き手より一歩先を行きます。
それは話し手の革財布の描写を受けて、聴き手が自分自身の内に革財布を造り出すからです。
 そして、聴き手が汚いヌルヌルした革の財布を思い描くには少しですが時間がかかるんです。

 話し手は話しを先に進めたいのですが、聴き手に汚いヌルヌルした革の財布を思い描いてもらわなければ先に進めません。
そこで聴き手が思い描くまで話し手は先に進まずに待ちます。つまり、聴き手が追いつくまで待つのです。そして、聴き手が追いついたところで、話し手はまた話しを進め、また一歩先に進みます。そしてまた立ち止まって聴き手が追いつくのを待つのです。
 この待つ時間が「間」です。

これは話し手と聴き手とを外から見た時間のことです。では、それぞれの内なる時間を見てみましょう。そこには更に驚くことがありました。

 実は、話し手と聞き手とでは時間の進む速度が大きく違うのです。それは同じ1分でも、話し手にとっては1分はかなり長く感じますが、聴き手にとっては1分はほんの一瞬に感じています。
 例えば、「今戸の狐」のクライマックスのことです。
 ヤクザが博打の「狐」を見せろと言っているのに、出てきたのが焼き物の狐。それを見てヤクザが驚きます。この驚く時間を話し手が充分にたっぷりとったつもりでも、聴き手にとってはほんの一瞬のことに感じているのです。
 とくに、話し手が話しに詰まった時など、話し手には時間が恐ろしいくらいに長く、まるで時間が停まったかのように感じますが、とうぜんのことに、客にはそんな時間感覚は全くないのです。話し手は秒針を見ながら話しているようなものですが、聴き手は分針すら見ていないようなものですから。
 ですから話し手にとっては15分の落語は聴き手の15分よりずっと長い15分なのです。
 
  落語は非日常を描きます。しかし、こう見てくると、非日常を描く落語の環境はそれ自身がすでに非日常なのです。

さて、次回は更に人間関係から落語の「イロハのイ」を考えてみたいと思います。
                        (来月に続く)


第68回志ん諒の会













2017年6月13日火曜日

第69回志ん諒の会チラシ