落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2009年7月31日金曜日

ガマン

脚が痺れます。
落語は正座でするものですから、
なんとかしたいです。
そこで、調べてみました。
以下に代表的な
二つの方法を引用します。

まずは方法1、
『足首で円を作って、
その中にお尻を納めるように座ると
足に負担がかからず楽なようです。
重心が後ろになるので背筋も伸びます。
さらに、指先をなるべく
座布団の端に寄せておくと
圧迫されず、
左右の親指を重ね合わせて
時々上下を入れ替えると
血流が滞らないそうです。
また、膝をぴったり付けずに
こぶし1個分離したほうが
しびれにくくなるそうです。
それでも時間が経つと
どうしてもしびれてきてしまいます。
そこで、しびれそうになったら
片方の足に重心を移し、
もう片方を休ませてやると
しびれがとれるので、
これを交互に行います。
まず、左足に重心を移します。
このときの右足、
自由に動かせるほど
負担がかかっていません。
時折、交互にやって
しびれを防止します。
でも、痺れてしまいました。
そんなときは立つ間際に、
さりげなくしびれを とります。
立ち上がる前に
座布団の外につま先を立て、
かかとの上に腰を落として
重心をかけていると、
早くしびれがとれます。
これならさりげなく出来ます。
また、立ってすぐに前進すると
転倒しやすいので、
立ち上がったらまず後ろに下がり、
それから歩き出します。』


続いて、方法2
『膝から下を平行に揃えて
かかとの上に乗るように座ります。
このとき、膝を揃えてかかと側を
少し開くようにし、
その間におしりを入れると
安定しますが、足は痺れます。
そこで、かかとはほとんど開かずに、
おしりの下部(足の付け根)に
かかとが突き刺さる感じで、
そのまま、体重を前にかけて、
膝立ちをするようにします。
膝、かかと、太股がくっついたまま、
膝立ちができたら成功です。
正座をするときには逆に、
膝立ちのまままっすぐに
おしりを下ろすようにして座る、
ということです。
膝、かかとが開いていて、
体重がうしろにかかっていると、
上手く膝立ちができません。
逆に、膝で立つと
上記のような姿勢になることが
わかると思います。
膝、かかとが開いていると、
膝立ちするときに、
前面のふとももの筋肉に
負担がかかります。
足を揃えていると
ラクに膝立ちができます。
膝で立っていると、
足が痺れることはありません。
つまり、最初に書いたような
膝で立ち上がろうとする
ぎりぎりの瞬間の姿勢で
体重を前にかけていると、
床に接している足に体重がかからず、
足も痺れないのです。
「正座空気イス」のような状態です。
足の甲、膝の裏に力をいれて
体を浮かせると、
お尻の下に紙でも板でも入ります。
そういう状態です。
ただし、常に浮き上がっていると
疲れますので、
体重は前にかけたまま
お尻はかかとに軽く乗せます。
座ると重心はうしろに下がりますので、
体重を前にかけている気持ちでいると、
背筋が伸びて重心を体の中心で
キープすることができます。
足が痺れてきたな、と思ったら、
この「正座空気イス」状態を利用して、
少し腰を浮かせ、
足の痺れをとってから
座りなおすこともできます。
親指を立てて、低い膝立ち状態にすると
足の痺れが取れます。
両足一度にすると体が浮きすぎて
立ち上がろうとしているのが
バレますので、片足ずつ行います。
コツは、膝をそろえる、
膝から下のすねの部分を平行にして
隙間を作らないことです。
何時間正座しても平気な
お寺のご住職に教わりました。
でも、最終的には慣れだそうです。』

以上纏めてみました。

座布団を上手に使って、
方法2を練習してみようと思います。

「おしりを動かさない」ためには
なんといっても正座の練習ですよね。

「オシャレはガマンですっ」って
ピーコさんが力説していましたが、
落語の「品の良さ」もガマンでした。

2009年7月30日木曜日

大蛇(おろち)

ドラゴンクエスト、売れてます。
このドラゴン、ドレイクとも
呼ばれていますが、
西洋の龍のことですよね。
暴れん坊で害のあるものとして
退治されちゃうんです。

それに比べ、東洋の龍は
神としてあがめられています。
中国では古来、五爪の龍といって、
指が五本ある龍は
皇帝の印とされているそうです。
たしかに、
北京へ行ったときに見た
皇帝の御座には
背から肘掛けにかけて這うように
五爪の龍が指を広げていました。
一方、奈良のお寺で見た
龍の石の彫り物などは三爪でした。

西洋では邪魔者として
排斥される龍も、
所を変えて東洋では
神様として大切にされています。

そうなんです、
ご存じでしたらごめんなさい、
龍は川の象徴なんです。

狩猟民族にとって川は
害ある物以外の物ではないんですね。
それに比べ、
農耕民族にとっては
こんな大切な物はありません。

この川が小さくなると
龍は蛇となるわけです。

ですから、ウワバミなんてのは、
どうでしょ、
大川あるいは、宮戸川くらいでしょうか。

白蛇様信仰、巳様(みいさま)信仰、
日本神話の八岐大蛇(やまたのおろち)。

田能久でウワバミが
「人間を呑む」というのも、
川にのまれることなんでしょうね。

古来より、日本では川と人とは
親戚のように共存してきたわけですから、
やはり、
痛めつけたままで終わるというのは
いただけません。

どんなにひどく氾濫しても、
よしよしと宥めて、
その後、感謝を持って
またその流れに見とれるのが
日本人の心情だと思います。

「おいおい、見たかい、田能久一座」
「みたみた、ありゃなんだい、
今度の爺さんの下手なこと、
台詞が棒読みだよなぁ」
「ああ、久部衛さんが上手いだけに
余計にひどいね」
「なんでも、元はウワバミらしいって噂だよ」

「なるほどぉ大蛇(おろち)かぃ、
じゃあ、役者はダメだ
すぐに下ろした方がいい」

「辛口だね」

「そりゃ、
相手は大根役者だ
下手に下ろしゃぁ
大根大蛇は辛くならぁ」

2009年7月29日水曜日

ウワバミさん

田能久は難しいですよ。
いえ、芸としてどうのとか、
かけだしの身で言えることは
何もありません。
あくまで、
このお話に対してのことでして。

このプロット、
どうしてもウワバミさんに
気持ちが向いてしまうんです。
主人公が弱いんです。
そう、脇役に負けているんです。

この話は
田能久さんのストーリーなのか
ウワバミさんのストーリーなのか
あるいは、運命の不条理なのか

例えとして
そぐわないかもしれませんが、
ヤッターマンとドロンジョサマの
関係に似ています。
ボヤッキーが居ないのが
ちょいと寂しいんですが、
ファンなので。

ヤッターマンは
ほんわかした後味がいい。

どうでしょう、
そんな後味を狙うとしたら、
最後にウワバミさんを
救ってあげるプロットが欲しいですね。
そして、続・田能久を予感させる
エンディングだともっといいですね。

全体を通して、
気持ちが大きく変化していく様を
克明に描かれているのは
久兵衛さんではなく、
ウワバミさんです。
ウワバミさんの寂しさを
久兵衛さんが
理解してあげる行があれば、
ウワバミさんの切なさを
より表現できると思ったりします。

友として信頼を寄せていた
久兵衛さんを失ったという思いと、
最後まで「はい、狸です」と言った
久兵衛さんの言葉を
信じていた思いとを、
クライマックスの対決にのせて
描くことが出来たなら、

私の今までの時間のなかで起こった
「似た出来事」を
思い返さずにはいられないでしょうね。

なぜなんだ、なぜなんだと
ヤケになって
都々逸まで唄っちゃうくらい、
自分を嗤っちゃうくらい、
傷ついてしまったウワバミさんを
なんとか救ってあげたいです。

【「おめぇがしゃべったからおらあこんなざまだ、みろ、頭あ裂けちまったよ血がめえん中へ入ってもう物がめえねえあーあーあー、オレの寿命はもうもたねぇやオレの苦しみはおめえにもあじわあせるから、さあ、これみてくされーっ」
ガラガラガラガラガラガラガラガラア
えらい音がして、
年寄りはパッと姿あ消した。
家んなか見ると、
大きな箱がふたあっつ、
なんだろうと久兵衛さん開けてみると
小判で三億両。】

久兵衛さん、
思わず外に向かって
「ウワバミさぁん、ごめんなぁー、
わるかったよー、かんべんしとくれよー、
それと、これ、ありがとぅよー、
これでおっ母さん、治療できるよ、
この恩返しゃ必ずさせてもらうよー」

するとウワバミさん、パッと現れて、

「おぉ、ほうかい、ほうかい、
じゃ、オレのことも治療してくれ、
それとな、今また
あいつらに追っかけられとるんだ、
な、たのむ、
オレを連れて逃げてくれねぇか」

「無理ですよ、そんな身体じゃ」

「心配するこたぁねぇ、
オレは蛇、
足手纏いにゃならねぇよ」

2009年7月28日火曜日

訂正

二つ前の書き込みで
ついつい、「オレ」を
使っちゃいました。

師匠に言われたことを
コロッと忘れちゃって。

早速直しました。

「オレ」なんて、
最近は「オレオレ」といえば
詐欺のことですからね。
縁起が悪いですよね。

そりゃそうです。
サギじゃあ、
首が長いからといって
亀と並べたって
「ズルとカメ」に
なっちゃいますもん。

綿帽子の雪

よく、雪空を見上げていた
薄明るい空
そのどこからか
雪の一つ一つが
突然生まれて、
光りながら降ってくる

その様子を
じっと見ていると

薄明かりに色は消え
なんだか
吸い込まれていくような
吸い上げられていくような
ふわりと浮かび上がっていくような

あたりの音が遠くなる

雪空の下で
自分は一人なんだと感じる

ふと、降り落ちてくる雪の一つを
追いかけてみると、
予測できないその動きに
魅了された

なんとか捕まえた

けれどそれは
掌の上で
どんどん崩れて、
とうとう消えてしまった

そんなふうに消えるとは
少しも気付かなかった

手袋に残ったシミが
ちよっとだけ冷たかった

あ、こんな事書くと
あーっ、なんかあったでしょって
思われそうだけど、
それ、違いますからぁ

2009年7月27日月曜日

アタシ

よく耳にすることだけど、

私にはこいつが居るんだよ
そのこいつが居無くなると
私にはなんにも無くなる

私には会社があるんだよ
その会社が無くなると
私にはなんにも無くなる

私には金があるんだよ
その金が無くなると
私にはなんにも無くなる

そんなことではいけませんね。

私にとって
無くならないものって、何だろう。
それは「アタシ」かな。

私には「アタシ」がある。

ここで、私は今の私だけど、
「アタシ」は
これから成ろうとしている「アタシ」。
こいつぁ、おいそれとは無くならない。

私には「アタシ」がある。
「アタシ」が無くならないんだから、
この先、
なんにも無くなることはないんだ。

よかったぁ。

「アタシ」の姿がはっきり見えると、
おやおや、
「アタシ」と私との距離が見えてくる。

あぁ、けっこうあるなぁ。

そうか、
その「アタシ」との距離を
縮めるためにすることが、
今、私がすることなんだな。

てわけで、
ぇと、
「商売となりますと、
これがなかなかたいへんで、・・・」

2009年7月26日日曜日

末裔

島倉千代子「東京だょおっ母さん」

久しぶりに手をひいて
親子で歩けるうれしさに
小さい頃が
浮かんで来ますよおっ母さん
ここが ここが 
二重橋
記念の写真をとりましょね

やさしかった兄さんが
田舎の話を聞きたいと
桜の下で
さぞかし待つだろおっ母さん
あれが あれが 
九段坂
逢ったら泣くでしょ兄さんも

さあさ着いた着きました
達者で永生きするように
お参りしましょよ
観音様ですおっ母さん
ここが ここが 
浅草よお祭りみたいに賑かね

「もう戦後は終わった」と言われた
昭和30年生まれの私でも、
この声に触れると
目頭が熱くなります。

「田能久」で久兵衛さんが
おっ母さんの無事を祈るあまり、
ウワバミに会ってしまうのも
無理からぬ事ですね。

「魂」というものがあるとしたなら、
きっと、先人達はなんとか
その「魂」を伝えようとしたんでしょうね。
それが今、
「落語」とかとかの形になって
伝わっているのかなぁ、
なんて思うんですよ。

この唄
涼やかな春風と
これまでへの感謝と
これからへの希望とを
たおやかな声に乗せて
私の心に届けます。

「田能久」に込められている
先人達の思いに心を向けるとき、
自分がそんな「いい人達」の
末裔なんだなぁと思えて、
ひとしきり笑みが零れちゃいます。

万が一、間違って、
自分の噺で
そんな「笑み」が生まれたら、
なんてね。
そしたら、お祝いに
箱根湯本に温泉旅行にでも
いっちゃおうかな。
もちろん列車は、
「田能久ロマンスカー」で。

2009年7月25日土曜日

落語圏

アセンブラ、Cにパスカル、ベーシック
これらはコンピューター言語です。
コンピューターにこれこれをしなさいっていう、命令する言葉ですね。

これが、コンピューターに同じ事を
させるんでも、
全く違う言い回しになっちゃうんです。
でもね、じゃぁ、
その結果は同じかというと、
これが違うんですね。
処理速度、システムにかかる負担、
修復性能、他のシステムへの
可搬性とかとか、
言葉によって違うんです。

言語というだけあって、そこには
それぞれの文化があるんですね。

「文化」などというと
分かりにくくなってしまいますので、
「文化」ときたら、わたしは
「やり方」て言葉に置き換えて
考えるようにしています。

「文化圏」といいますね。
どうでしょう、「落語圏」ってのは。
英語圏やドイツ語圏があるんだから、
「落語圏」てのも
あっていいんじゃないかしらん。

といってもなぁ、落語は、
「語」とは言っても「言語」じゃないしねぇ、
だれも落語で
「愛」を語り合ったりしてねぇよなぁ。
おっと、まてよ、
落語の中じゃあ、「愛」ってやつ、
語ってるじゃないか、
え、そうだよ、ねぇ、
師匠の本にくっついてる
「替り目」なんてのは、
ありゃぁ「愛」ですよ、ね。

そりゃあね、落語は日本語ですよ、
でも、そこらの日本語じゃない、
そこらの日本語じゃぁ、
ああゆう世界は描けない、
世界を描く「やり方」が違いますね。

てことは、「やり方」は「文化」だから、
「やり方」が違うって事は、
「文化」が違うって事で、
すると、とうぜん、
「文化圏」も違うってことになる、ね。

やっぱり、あるんだなぁ、「落語圏」。
これは「大気圏」みたいなもので、
めったに気がつかないけど、
実は生かしてもらっている、
てな物なのかもしれないなぁ。

その、有り難み、
うっかりすると忘れちゃう、
でもまた通っては聴いちゃう。
これじゃ、まるで
「定期券」。

2009年7月24日金曜日

稽古

(写真はクリックすると拡大します)

向かって右は三遊亭圓窓師匠
左は桂才紫先生です。
稽古の後のほっとした空気が
三人の笑顔から伝わるでしょうか。

その後は、恒例となりました
「笑いっ子連」の稽古会です。

13人の出席に加えて、
紅巣亭浪市兄さん、
紅巣亭まど音姉さんの御参観を
いただきまして、大盛況でした。
みなさま、ありがとうございました。
楽しい時間はあっという間の5時間余り。
師匠、ありがとうございました。
疲労困憊のことと思います。

もうすでに、師匠のブログ
「疲れ」という字が見える気がしつつも、
みなさんがニコニコと
別れの挨拶を交わす姿に、
師匠の「疲れ」が
カラスのように
飛んでいっちゃうことを
願うばかりです。

私の場合は、
疲労を感じたら、
まずはお風呂、
そして、キンキンに冷えたビール、
これが効きます。
それでは、
いただきます。
せぇのっ、
「疲労カンパイー」。

2009年7月23日木曜日

「芸脈」って言葉があるんだそうですな。
「伝承の道筋」って訳なんですが。
きちんと稽古してもらったものってのは、
「行儀」がいい。
行儀がいいってのは気持ちいいものですね。

一方で、
「芸は盗むもの」とも、
良く言われますね。

9月には
6代目三遊亭圓生DVD全集(上)
が出るそうです。

ですが、
これら媒体から芸を盗むってのは
「行儀」が悪い感じがします。
心のどこかで
胡散臭い気がするんです。
なんとなくね。

だってね、
「芸脈」の具合が悪くなりゃぁ、
「臭せぇ脈」になります。

2009年7月22日水曜日

ストン

講談は実録物といいますが、
4割は嘘だそうですな。
ですから残りの6割が
真実ということで、
実6なんだそうですが。

これが落語ですと
「落語の中では」という語り始めで
一気に落語の世界に
入ってしまいますね。
そこは、その一言で、
全て、非日常の世界ということです。

しかし、どうでしょう、
落語ほど日常を意識する話芸は
ないように思います。

そこは長屋であったり、
お屋敷であったり、
遊郭であったりと
場所も時代も様々ですが、
演る方にはその語り口に
高い日常性が求められます。

「うん、いるいる」と言わせる語り口ですね。

「約束されている
非日常世界の中の日常性」
これが実現すると、
客は、ひととき、
別世界へ旅立てると言うわけです。

「語り口の高い日常性」とは
舞台の上の役者の台詞回しとは
明らかに違うんです。
どうやら、
そこには
今流行の狭小住宅建築の
「匠の技」のようなものがあるようです。

落語は舞台と違って、
装置、衣装、扮装、化粧といった
様々な要素をそぎ落としていることも、
「高い日常性」の実現に
寄与しているのではないでしょうか。

その日常性の扉を開いた
噺家の体を通って
客は非日常世界に誘われて行くのです。

そして、客は、ふわっと浮かんだ
ここちよい非日常世界から、
ストンと落とされて、
噺家のお辞儀と共に
現実世界に戻って来るのですね。

「会社を首になったんだよ。
おいおい、
さっきからポリポリ食ってないで
聞いてくれよ。
まったく、なんだよそれ。」

「こりゃぁ、カンパンでござんす。」

「おあとがよろしいようで。」

2009年7月21日火曜日

立花左近

「忠臣蔵」なんですが。
このテーマの作品は、
いままでほぼ、
映画70本、テレビ30本
あるらしいですね。
もちろん、
いくつかしか見ていませんけどね。
そのなかで、この場面といえば、
それは、
昭和36年公開の
東映「赤穂浪士」の名場面。
片岡千恵蔵の大石内蔵助が
大河内傳次郎の
九條家用人立花左近と対面する。
「そのほう、何故に九條家用人立花左近と偽るか。」
「なにを申す、拙者は九條家用人立花左近、そのほうこそ何故に立花左近と偽る。」
「真の立花左近であらば目録を持参いたしておろう、拝見いたしたい。」
襖の奥には刀のつばに手を掛けた義士の面々が固唾をのむ。
「篤とご覧あれ。」
これが白紙。ふと、目を遣ると、目録の箱の蓋には赤穂の紋。
(ここです、ここ。)
一瞬で全てを悟った立花左近、
「失礼つかまつった、いかにも、拙者こそ偽りの立花左近」
襖の奥では一同涙。
翌朝「このようなもの、もはや拙者には無用のもの」と通行手形を置いて行く。

これ、落語にならないかしらねぇ。

2009年7月20日月曜日

トム・ワトソン

スチュワート・シンクとトム・ワトソン、共に優勝でいいじゃないかね。プレーオフをやってほしくないと思ったのは初めてですよ。それだけ、気持ちが入っちゃってたんだなぁ。
真剣に取り組んでいる姿というのはいいもんです。「笑わせようと思っちゃダメ、そこなんです」という師匠の言葉の『そこ』。

トム・ワトソンが噺家になったら、きっといい噺をするだろうなぁ。

2009年7月19日日曜日

命日

「誕生日おめでとう」
なんてぇことは
江戸時代には無かったのかも
しれないんですよ。

昔は数え年だったからね、
みんな元旦に一緒に
年をとるわけです。
でも、死んだ日は命日として
大切にされているわけで、
赤穂浪士の討ち入りも
「月命日」です。

一生の記念日は
誕生した日ではなく、
一生を全うした日と考えるのは
頷けます。
よく人生をレースに例えますが、
どっちがより大切か
と言われれば、
そりゃ、
スタートよりゴールですから。

2009年7月18日土曜日

刃傷松の廊下

一龍斎貞花の講談「赤穂義士外伝・忠僕直助」をテレビで見たら。
その中に、「みがし」と「こんな嬉しいことぁござんせん。」が出てきたんですよ。
なぜか、ちよっと嬉しかったなぁ。

忠臣蔵、なぜいいんでしょうねぇ。

私、カラオケで、時々、「刃傷松の廊下」を歌うんですよ。

『勅使下向の春弥生
いかに果たさん 勤めなん
身は饗応の 大役ぞ
頼むは吉良と 思えども
彼の振る舞いの 心なき

各々方 各々方
お出合い そうらえ
浅野殿 刃傷にござるぞ

積る遺恨を 堪忍の
二字で耐えたる 長矩も
武士には武士の 意気地あり
刃に及ぶ 刃傷の
血涙悲し 松の廊下

おはなし下され 梶川殿
五万三千石
所領も捨て家来も捨てての
刃傷でござる
武士の情をご存じあらば
その手はなして今一太刀
討たせて下され 梶川殿

花の命を さながらに
赤穂三代 五十年
浅野の家も これまでか
君君たらずとも 臣は臣
許せよ吾を この無念 』

いいなぁ。

2009年7月17日金曜日

ゴルフ

「ちよっと、解説、そこでしゃべらない」

全英オープン予選第一日目、
石川遼と、終始にこやかに単独トップに立つ60歳のトムワトソンに惹かれてとうとう、最後までテレビを見てしまって4時前。

石川遼がBBCのインタビューを受けている姿を見て、誇らしく思ったり、「英会話もちゃんとやんなきゃ」と反省したり。

「水神」以来、めずらしく楽しめたテレビだったが、なんだ、あの解説は。隣にアナウンサーもディレクターももう一人の解説も居るのに、どうして誰も教えてやらねぇんだ、「ショットに入ったら黙れ」って。
クワイエットって札まで出して、周りは息を殺して見守ってるんだぞ、ましてや、7番の石川遼のバーディーパットはこの日の勝負所、それをボールがカップに落ちるまでしゃべり続けるたぁなんだいったい。また、そのいいっぷりが偉そうなんだなぁ。ま、誰も言ってあげられないのも、あれじゃあ無理ないかな。

ゴルフはプロでしょうけど、解説はプロじゃないな。プロならまず、お客はどう聞いているのかと、お客の側から考えなきゃいけないよ。言いたいことだけ言ってるんじゃ、ただ解説してるだけですよ。

アドレスに入ってショットする前のクラブヘッドが一瞬止まるそのとき、これは落語の間と同じですね。

それまでの一連の流れをきもちよく見ていて、そして、ぴたっと止まる。見ている方は、次に起きる情景を期待する。

「いいリズムでやれたので」とは石川遼の試合後の言葉です。
間はリズムを作るんですね。でも、それも、そこまでが一連の流れとして気持ちよくいかないといけない。

すると、間の後は、ゴルフでも落語でもナイスショットになるんだなぁ。

ゴルフと落語は似てますね。
最後はカップに落とすんです。

2009年7月15日水曜日

ひょいと

「ちょぉいとぉ くりやさん 」
季節は秋です。

物売りに声を掛けるんですから明るいうちです。
「あかんぼうが 寝たばっかりなんだよ」とくれば、
これはお昼寝でしょう。
となると、12時-昼九ツ(午ノ刻)、13時-九ツ半、14時-昼八ツ(未ノ刻)あたりでしょうね。

「度胸があるのぉ ん 買い求める よいか ・ ・ ・ ぇええいぃーっ 首屋が ひょいと 体を躱します」
これがほんとうに出来たんだとしたら首屋はどうやって刃を躱すことが出来たのでしょうか。

そこで、お庭の位置を考えますと、
およそ、南にあることが多いですね、
ムシロを敷いて、座り込んだ首屋は、
お屋敷に向かっているはずです。
すると、太陽は斜め後方から首屋を照らしているでしょう。

そこで、首屋は陰を見ていたというのはいかがでしょう。
斜め後ろで振り上げた刀の陰は土下座している首屋の上に伸びていたはずです。

首屋は土下座をした形ですが、その両手は肩幅に開いて、指を開き、しっかり地面につけています。

秋の2時頃です、天高く、さわやかな秋の日です。南中した陽光に浮かび上がる刀の陰。「よいか」一瞬の切っ先の動きに合わせて、首屋は一気に両手で地面を押しやり、上体を後方に跳ね上げました。

ね、これなら躱せそう、かな。

2009年7月14日火曜日

未練ねぇ

青年文化を20年ごとに、
その特徴から捉えると、
1940年代・決死の世代
1960年代・団塊世代
1980年代・バブル世代
2000年代・フリーター世代
になるそうで、
落語を聴くお客さんも、
それぞれの世代ごとに
同じ話でも
抱く思いは様々だろうなと、
あたりまえですが。

自分はこの
団塊の世代とバブル世代の
真ん中あたりで、
中途半端。
良く言えば、
両方の特徴を持っている
のかもしれませんね。

決死の世代と団塊世代は
政治が
青春に価値を与えていました。
一方で、
バブル世代とフリーター世代では
経済が
その物差しとなっています。

ですから、
人口比で多数の日本人は今、
政治より経済を
秤に掛けることが多いようです。

すると、この「首屋」はどうでしょう。

実に現代的な噺です。

貧富を意識し、
先の見えない今日に
自分を探す、
現代の青年が
共感できる「首屋」が
ここにいます。

また、生死をひしひしと感じさせ、
体制を嘲笑うようにもとれる、
そんな諧謔心が
決死の世代と団塊世代を
魅了する「首屋」でも
あると思います。

三遊亭伝統噺「首屋」
そこには歴史を見通した
先人達の見識を感じます。

この世にぴったりの
「首屋」です。
この世が大好きですから
未練たっぷりですよね。

「この世に 未練は
ねぇつもりで
あきねぇに へぇりましたが
そぉ おっしゃって
いただきますと
甘えたくなりますんで
娑婆の見納めを
さしていただきとう
ぞんじます。」

「ん 無理もなかろう、
未練があるのだな、
そうか、
なるほど、
首を手放した後じゃぁ
未練ねぇ
て訳だな。」

2009年7月13日月曜日

みがし

「それわぁわかっておる
ん、事によると、
殿がお買い上げになるかもしれん」
「ぁ、こちらの 殿様がぁ」
「みがしに ついてきなさい」

この三太夫さんの「みがし」って
なんだろう。
「それがし」は時代劇で幾度となく聞いた
ことがあるんだけど、
で、調べてみました。
「何某」で「なにがし」、
「御」は尊敬すべき人に属するもの
であることを示して、
尊敬の意を添える。 「御子」「御心」「御手」というふうに
使います。

というわけで、
そこらの侍とは違うんだぞ、
自分は殿様に仕える身だぞ、
で「御某」(みがし)かと。

するとあたしも、
「御本当」(みほんとう)というわけで、
どうです、切れ味、良さそうでしょ。

主人公の首屋

主人公の人柄、料簡を
決めておかなくちゃ。

「えれぇことんなったなぁ
とうとうこうやって
てめぇの首うってぇ
あるくはめんなっちゃったよ」

このとき、すでに、
首屋は仕事をしようと
決心してたはずです。
やろうという決意はある。

それは
「この首うってぇ
なんとかしよぉ」
ではっきりと示します。

ところが
そう、声に出してみると、
現実がはっきり見えてきます。
そこで、
急に不安になりました。

「といってもなあ」
から
「あー だそう ともうと
こえってぇのは
でてこねぇもんだなぁ」
までは不安を抱えている
心境です。

どうしたらいいんだ
どうしたら、と
悩みながら
考えます。

それが、
「えーくくびっ、
くびぃやぁでぇござい
ぁー、 やの字入れると
あと、 つぅっと出てくんだな」
から、
勇気がわいてきます。
こりゃぁやれそうだぞ、
自信が出てきます。

そこで客から声がかかれば、
自分の仕事の
第一段階は成功した
との思いと
次なる期待で、
気持ちは高揚し、
声も張りのある
明るい声です。

ところが
「くびぃ
あらいやだ
なんのくび」
と言われて
心に雲がかかります。

「いやだねぇ
まぁ、きみがわるいね
そっち いっとくれっ」
で、がっくり。
落ち込みながら、
歩きます。

で、
「そうだ」
と言ったとき、
ここで、ひらめきに
光明を見いだします。
また自信が湧いてきて、
声に張りが戻ってきます。

「りゃんこに
買ってもらおう ね
おさむらいなら
度胸だってあるしね
ことによると
買ってくれるかもしれねぇ
よしっ
屋敷町まわろ、」

---つづく

2009年7月12日日曜日

蕎麦のつづき








「あったかくても、冷たくされても、あたしゃあなたの蕎麦がいい」、
初都々逸です。創作したつもりですが、どっかで聞いて忘れていたらごめんなさい。
いやあ、いい。
佇まいがいい。
エアコンの無い快適さ、畳の感触、
ゆったりと波打つ葉擦れの音、
食べた後、思わず横になりたくなりました。
師匠に食べてほしいなあ
ごちそうさまでした!

蕎麦





田んぼのなあかの一軒家。トクさんの恩人である阿部さんご夫婦に車で案内して頂いた上、ちゃっかりご馳走になっちゃいまいました。ありがとうございました!いやあ旨かった、どこをどう走ったんでしょう。
気がつくと、そこは、山懐にいだかれた、一軒の蕎麦屋でした。

山形、岩沢温泉

空が暗い!真っ暗です。夜ってのはこうじゃなくっちゃって。頭の上に広がる世界の9割がたが真っ暗なんです。これなら、逆らって夜更かしする気になりませんね。静かな夜に包まれて、気持ちよくおやすみなさい。と言いたいのに。ワイワイワイ、寝かせないぞと宴会です。やっと抜けだし眠ったものの、こんどはトクのいびきです。こんな時間に目が覚めて、おはようございにゃまだまだ早いと、布団を被っておやすみなさい。

2009年7月11日土曜日

山形大学OB会



辰巳でラグビー、完敗でした。相手はテレビ朝日、加えて早稲田のフルバックの今泉さん。勝負になりませんよ。東京駅で悔し酒を飲んで、さらに写真のように酒を買って車中の人です。写真は、あ、紹介します。お初になりますが、トクと申します。整形外科医です。で、さそわれるまま、一路山形という訳です。
首屋 やってます。トクは隣で爆睡ですが、「商売となると、これがなかなか大変で、今ですとまず・・・」とやってます。ああ、おぼえられないよぉねぇ。

2009年7月10日金曜日

殿様

『ん
そのほう
首を 手放すようじゃが
よが買い求めても
差し支えあるまいの』
って、
今なら、
差し支えありますよね。

そのころは、
殿様には
許されていたんでしょうねぇ

だから

『ほれ 三日前に
新刀をもとめたのぅ
切れ味を 試してみるわ 』

と言うときも
決して
後ろめたい所はありません
堂々としたものです。

そこで、「首屋」に出てくる
殿様とは
どんな人なのかなぁと。

調べてみると、
「殿様」とは、
江戸時代の領国の主か、
禄の高い「旗本」を
指すそうです。
ときには下級武士でも
嫌味も込めて「殿様」と
呼ぶこともあるようですが。

この「旗本」とは、
徳川将軍家の直属家臣の
「直参(じきさん)」の中で、
「1万石以下」で、
将軍に「御目見(おめみえ)」
できる者 だそうで、
同じ直参でも、
御目見ができない者は
「御家人」ていうんですね。

「旗本」の数は、
享保年間で、約5000人、
「旗本」、「御家人」と
その家来を合わせて、
俗に「旗本八万騎」と
呼ばれていたそうですから、
かなりいっぱい
いたわけですね。

『なにやら
窓下をな
くびやくびくびと
通行するものがある』

この、「窓下」ってなんでしょ。
「会津武家屋敷」
のホームページの
写真を 見ても、
確かに門の脇に
窓らしいものは
あります。
その窓の下
ということですかね。

しかし、
殿様が
そこにいるとは
思えませんからね。
まあ、
比較的小さなお屋敷だとしても
土塀に囲まれた母屋
いたんでしょうね。

ですから、
長屋を売り歩くより
よけい大きな声を
出す必要があったわけです。

『ぁーこんな小さい声じゃ
いけねぇんだ
もっと大きい声でなきゃぁ 』
という事の訳なんですね。

三太夫さんが、
外に出ると まだそこに
首屋がいたわけですから
そのことからも
ここが そんなに大きな
お屋敷でないことが
伺われます。

最近は
焼きイモ屋さんなんかは
自動車で売りに来ますよね。
で、たまたま
上層階にいたりして、

「ねぇ、焼き芋たべたいわぁ」
なんて言われたら、
そりゃもう、

「ははっ、 かしこまりました」
とばかりに
階段とか、
階段とか、
階段とかで
三太夫さんは
表に飛び出すんですが、

出てみると
もういない、

遠くから
風に乗って
むなしく
テープの売り声が
聞こえます。

「栗よりあまぁ~ぃ」と。

まったく、あれじゃ
商売にならねぇと
思うんですがねぇ。

暮らしていけてるのかなぁと、
余計な御世話だと
思いながらも
心配になりますよねぇ。

でも、まあ、
近くにいても、
イモ屋さんだけに、
すぐに
見えなくなっちゃう

芋を食えば塀ができます。

2009年7月9日木曜日

プロとは何でしょうね。

プロとは、
プロフェッショナルの略で、
意味は「専門家」ですね。

「専門家」は
岩波書店・広辞苑では

「ある学問分野や事柄などを
専門に研究・担当し、
それに精通している人」
とあります。

さて、私をはじめ、
師匠に
稽古をつけていただいている
同窓っ子のみなさんは
いかがでしょうか。
プロですか、それともアマですか。

ついつい、
素人だから、
ギャラを貰ってないから、
生活の糧が他にあるから、
という理由をもって
考えてしまいがちですね。

そこで、
そもそも落語とは何かと

考えてみました。

落語とは
地域性を伴う
伝承話芸です。

そのプロという意味ですから、
プロは
伝承者でなければ
なりませんね。

そうなんです。

今、われわれ
同窓っ子達全員は
すでに師匠に
稽古をつけて

もらっていることで
プロなんです。
いやいや、
言い過ぎでした。
プロの見習いなんです。

しかも、
三遊亭円朝直系の
伝承者の見習い
なんです。

うわぁ、
もうそれだけで、

なんという
仕合わせでしょう。

そして、
いつの日か、
真の伝承者になり、
さらには相伝者と
なることを夢見て、
今日もブツブツ稽古に
励みましょうね。

2009年7月8日水曜日

首屋を切り損ねた

『ぇええーっ
首屋が
ひょいっと
体を躱します
傍らの
風呂敷包みから
張り子の首を
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ
これこれこれこれ
これは張り子
その方の首じゃ』

このとき
師匠は
扇子を持たず
手で相手を指し示します。

刀は
どうなったのでしょう。

刀の
刀身重量は
およそ一キロ
あるそうです。

一度だけ
脇差しを
振ったことが
ありますが
その重いこと。

振り始めたら
途中で
止められない
くらいの
重さでした。

その脇差しは
40センチくらい
でしたから
刀の半分くらいの
重さのはずです。

ですから
首屋を切り損ねた時、
渾身の力で
空振りした刀です、
実際は
中間が敷いたムシロを
真っ二つに
したことでしょう。

玉砂利にめり込んだ
刀は
バンカーで
目玉を打ち損なって
めり込んだように
なっていたはずです。

だから
扇子を振って
示すわけには
いかないわけですね。

------
さて、こんな続きは
いかがでしょう
------

『こらぁ
看板でござんす』

首屋が木戸に向かって
走ります。
三太夫さんと中間達が
後を追いました。

しかし、
その逃げ足の速いこと。
三太夫さん、
ほどなく戻りまして、

殿、不覚にも
逃げられました。
いかがいたしましょう。
捜しだして
討ち取ろうと
思案いたしましたが
屋敷お外は
町奉行の管轄
昨今は何かとうるさく、
面倒なことに
なりませんと
よろしいので
ございますが

うん、
わかっておる、
じゃが、
たいしたことではない、
見ろ、
この張り子の首、
いまだ
出来上がっておらんぞ
さすれば
返品するがよかろう

はっ、
しかし、
返品するにも
いずれに

案ずるな
いずれ
向こうから参る
首を売り歩いて
おったのじゃ、
こんどは
胴を売り歩く

2009年7月7日火曜日

首屋さんって

勝手に考えたんで、
なんの考証もないって
ことで
お許しいただいて。
以下は全くのつくりもので
原作とはなんの
関係もありません。

「首屋」は武士を騙す噺です。
詐欺です。

でも、アタシは
首屋さんは
あくどい詐欺師だとは
思えないんです。

その理由を
これからお話しします。

首屋さんは
芝居小屋の道具師

ってことにします。

首屋さんには
いい仲のしとがいました
これが
ぃぃいいいー女!

ところが旦那が

付いていた。
揉め事です。

その当時、
男女の揉め事を
お金で収めると
相場は
七両二分
だったそうで。

それを収めたのが
小屋の座長です。

「おめぇは
いままで、ほんとに
よくやってくれた。

書き割りから看板まで
ま、はっきりいって
おめぇがいなかったら
この一座は
無かったようなもんだ。

だがよ、
旦那はここをこさえてる人だ、
旦那の顔をつぶすわけにゃ
いけねぇんだ。

そのうえ、元は鳶
一度怒ったら
なかなか静まらねぇ。

だから、おめぇにゃ
上方すら紹介できねぇ。
悪いが、
ここには
置いておけねぇんだよ。」

「はい、
承知いたしております
用立てていただきました
七両二分は
必ず

いつの日か
お返しに参ります。」

「ああ、

そんなこたぁ、
わかっているよ

きっとそんときは
ほとぼりも
冷めてるだろうからな

も一回
旦那ンとこに
俺がいっしょに
詫びを入れてやる

そんで、お許しが出たら

また
いっしょにやろうじゃねぇか」

「ありがとうございます。
へぇ、
これはせめてもの
お詫びのしるしで、
今ある銭
全部です。

それと、これが
今度の芝居で使う
生首の張り子で、
まだ仕上がって
ないんですが」

「おめぇの首を
仕上げられる
やつなんて
他にいねぇえんだから、
作りかけの
おめぇの首なんざ
いらねぇよ。」

見送られもせずに
一座を後にしました。

「どうしよう、
有り金全部
置いてきたしなぁ

あるのはてぇと、
この
おれの首かぁ

これがあってもなぁ
作りかけだし
売れねぇよなぁ
、、、
なんとか
おれの首
売れねぇかなぁ
、、、
そして、
『ぁーあ、
えれぇことんなったなぁ
とうとうこうやって
てめぇの首うってぇ
あるくはめんなっちゃったよ』
と、
原作に続くんじゃないかと。

首屋さんは
いたって真面目なしとなんです。
ぃぃいいい女が
惚れちゃうしとですよ。

だから真面目に
長屋の女将さんに、
なんとか
張り子の首を
買って貰おうと
思ってたんです。

もちろん
そんときは
二十文とか
そんなもんでね。

だけど
作りかけじゃだめだから
自分の首をと言って
売っといて
買ってあげるよと
言ってくれたら
代わりに
風呂敷包みを
置いていくつもり
だったんです。

だから、
長屋で声が
かかったときに
あんなに
嬉しそうなんです。

それが
お屋敷に
通されたあたりで
これは
大変なことになってきた
と思った。

張り子の首を出せる
雰囲気じゃあない。
これは
本気で
首を切ろうとしているな
と感じるわけです。

いまさら後には引けません。

そのとき
思い出しました。

今度の芝居の
切腹の場面。

そうだ、
あの手で
やってやろう、
と思いつくんです。

そう、刀を下ろした
瞬間に黒子が
首を転がすんです。

そして、
お殿様に
言い値といわれて
思わず
七両二分
と言っちゃった。

真面目なんですね。
それが
義理を通すのに
必要な額だから
って
それを言っちゃう。

儲けてやろう
なんて
考えない
真剣に
座長の気持ちに
報いようと
しているわけです。

そんな
「首屋」
なんだと
アタシは思ってます。

その後ですか、

七両二分
持って帰りました。
座長は喜びましたね。

女だって
黙っていませんよ。
そりゃぁ
すきなしとですからね。

それが
男を上げたって
話を聞いて
放っておくはずは
ありゃあせん。

さて、その後の顛末は。

駆け落ちです。
二人仲良く手に手を取って

「あらら、
いけないよ、
おまえさん、
向こうから
追っかけてくるのは
旦那だよぅ。」

「えっ、
そいつぁ
てぇへんだ、
脚、 速ぇんだよ

旦那は元は鳶の頭」

「じゃあ、
おまえさん、
こんどは

頭屋
になるんだね」


2009年7月6日月曜日

歩く

師匠は
「ぁーあ、 えれぇことんなったなぁ
とうとうこうやって
てめぇの首うってぇ
あるくはめんなっちゃったよ」

といいながら、
体を前後に
軽く動かして
歩いていることを
表しているんです

これが
普通歩くように
肩が右、左と
交互に出ません
ましてや
上下に動きません

これは
北京オリンピック
男子4x100mリレーで
銅メダルの
末續慎吾が
「ナンバ走りの動きを
意識して走った」
と語った
その
ナンバの歩法だと
考えると

しっくりきます。

きっと師匠は
走ったら速い

んじゃないかなぁ

そうなんです
昔の人は
手と足が
一緒に
前に出ていたんです

相撲の鉄砲も、
片側の腕、腰、足を
合わせて動かします

実際
坂道や階段を
上るときに
こうすると
確かに
上りやすいんです

膝を上げず前へ出す
ため、
上下動も少なくなります

うーん、
歩き方まで
江戸文化だったとは

東京文化じゃ
どうでしようねぇ

いろいろでしょうけどね

東京ドームでは
走っちゃいけませんよ

みんな柱ないんです

2009年7月5日日曜日

笑顔

集合写真を撮ります
「はい、笑ってぇ」
と言います

あとで写真を見ると
笑顔になっているのは
半分くらいですね
表情筋という
筋肉達が いまして、
これらが 笑顔を
こさえているわけですが、
これって、
使ってないと
使えなくなってしまう
らしいんです

ですから
笑えない人って
いるんですよ
でも、そのひとだって
顔に出なくても
笑っているんです

犬だってそうです
うれしいときは
笑っています
だって 尾っぽに
出ちゃってますから
隠せませんね
そんなときにも
顔は笑っていなくても
笑っているんですよ

笑わないと立派ですか
笑わないと真面目ですかねぇ

威張るとき恐い顔してる
しとっていますけど
ボクがいままでしってる
ほんとの大物は
笑って威張ってました

笑わない真面目なしとって
いますけど
ボクがいままでしってる
立派なしとは
真面目のなかに
笑うゆとりがありました

威張るも真面目も
離れて自分を見る目
そんなものがあるような
しとは
大物だったり
ゆとりがあったり
するんでしょうねぇ

笑うときって
一瞬自分だけになりますよね
相手から離れて
自分の中に立ち返って
そしてこみ上げてくるもの
ですよね

昔ギリシャでは
「美しいものとは呼ぶもの」
と言っていました。
それに習えば
可笑しいものとは
こみあげさせるもの
ですかね

じゃあ
どこに込み上げるのかぃ
と聞けば

もちろん
自分の中に
込み上げるんですから

相手が
可笑しいことを言っても
笑う一瞬前は

相手から離れて
自分だけになって
込み上げてくる笑いを
気にしているんです


そして
ジワッと来る

笑っているときは
相手と一緒です
それが
劇中の人物だとしても
そいつと一緒に
笑ってる

落語てぇものは
思い描かなきゃ
いけません
すると
自分の中に
イメージを作るような
心の動きは

すぐに
自分に
働きかけられる
わけですから
そりゃあ

笑っちゃう
んでしょうね

落語が面白いわけって
きっとそんなのも
一つじゃないかしらねぇ

2009年7月4日土曜日

試合直後に


豪雨
そういえば
「うちのやまのかみ」
っていうけど
これかい

やだねぇ

泣き笑いの
泣きが雨なら
笑いは晴れですかね

だから笑顔に
思わず晴れちゃうんでしょうかね、

一目晴れ
なんてのはいいねぇ

明日は惚れてくれ!!

惚れてくれたら
明日こそは
笑い
じゃなかった
トライを
とる!
かも

携帯からの更新です



新幹線の車中、
携帯からの更新です
バタバタしちゃって、
ま、いつもどこか
出かける時は
落ち着かなくって、
いけませんね。

テストもしていない
ので、どんなふうに
なっちゃってるのか
字の大きさは後で
変えているから
きっと
ちっちゃく
なっちゃって
るだろうなあ
って、

だとしたら
帰ったら大きく
しますので
そんな目で
無理やり読まないで
頭痛くなっちゃい
ますから。

そぅゆぅの
塵取りに目が
くっついたみたい
だって言うよ。
なにそれって。
「ごみとりまなこ」
とかいいますね。

「走行」してるうちに、
高崎ですよ
達磨弁当ですよ
うまいな
こんにゃくがうまい
この甘辛いのが
懐かしく美味しい

これから上田、
そこからはレンタカー
で、菅平高原です。

ぁ、申し遅れました、
今日明日とラグビー
で2試合
してくるんですよ。

こんな梅雨んなかをね、
ものずきな連中ですよ
ラグビーってのは
鬼ごっこですから。
ボール持ったら
鬼ってわけですから、
あれっ、ボール持ってないのが鬼かな?

雨だと思ったら




カンカンにいい天気、
芝生が気持ちいい。
高地だから
空気も走りも
軽やか。

しかし、
いいところで
落としてしまって
ノックオン。

落語でも
ああ見事に落としたいなあ

どうして首を売ろうなんて思っちゃうわけ



「門前に生首たやすな」

鎌倉時代のあるお屋敷の
書きつけに

記されているそうで。
東大保存の古文書に
そうあるんだそうです。

これは、

門前を通行する人を
それだけのために
殺害していたという
ことだそうで
なんとも
驚きですよ。

そこにある首は
命とは離れた
物としての首、
首そのものに
価値を見いだして

いるんですかね。

命がいくら

というんじゃなくって、
首がいくら

という感覚でしょうかね。

首こそが
武士の力をシメスモノ
なんでしょうね。

命なんかに価値はない、

首にあるんだ
ってなことだとしたら、

ね、
命なんかに価値はない、

心臓、肝臓、腎臓に
あるんだ
それこそが

医者の腕をシメスモノ
なんてことに
ならなきゃ
いいんですがねぇ。

(りゃんこみたいに
無駄にふんぞり
かえっている
医者って、
ね、いますよね)

2009年7月3日金曜日

首屋

-----

三遊亭圓窓
2009.7.1
 千一亭

-----

商売となりますとぉ、
これがなかなか大変で
今ですとまずぅ

仕事をしようとなると

お金という
問題が
まっつぁきに
出てきますな

資本がないことには
ぁーなにもできないという
わけなんですがぁ

ところがぁまぁ
落語ン中には
一文もなくとも
大もうけをしたってぇはなしが
ありましてぇ、ぁーあ、
えれぇことんなったなぁ
とうとうこうやって
てめぇの首うってぇ
あるくはめんなっちゃったよ

人間銭のねぇのは
首のねぇのにも劣るってぇけが
まったくだよ、
しょうがねぇ、
残ったのは
てめぇの首だけだ

この首うってぇ
なんとかしよぉ

といってもなあ
ただこぅやって
ぼんやりありぃてるだけじゃあ

何屋だか
わかってもらえねぇや

売り声だよ

なんだか
はずかしいなぁ

みっともねぇしねぇ

まぁ、
やんなくちゃいけねぇや

ぇーどうやりゃいいのかな

ぇぇっ、くくくび
くびやでござい

ぁーこんなちいさいこえじゃいけねぇんだ
もっとおおきいこえでなぁ

くぇっ、

なんだよ、

おれが
ひめいあげてちゃ
しょうがねぇな

ぉあー
だそう
ともうと
こえってぇのは
でてこねぇもんだなぁ
えーくくびっ、
くびぃやぁでぇござい
ぁー、
やの字入れると
あと、
つぅっと出てくんだな
これぇでだいじょ
♪くびやでござい
うめぇぞ
くびはいかがさま
くびやくびくび
くびやでござい
くびはいかがさま
できたての
くびでござい

ちょぉいとぉ
くりやさん

おっ
ありがてぇ
こぇがかかっ
えっ
どーも
ありがとう
ぞんじます

つぶはそろってんの

えー
まぁ
そろってますが

おおつぶもあるんでしょ

あー
おー
おおきいほうじゃ
ねぇんでござんすがねぇ
そろってることわぁ
たしかで
ござんすが

みずっぽくないんでしょ

ぇえー
ちいせぇうち
いどに
おっこったことが
ありますがねぇ
ぇー
それから
あんまり
ふやけて
ないから
だいじょうぶだと
おもうんですが

虫は食ってないでしょ

スッ、
できもんは
ありませんがね

あらいやだ
なんだい
できものてのは
あの
くりでしょ

いぇ
くびなんですが

くびぃ
あらいやだ
なんのくび

えー、
あっしの
くびなんでがす
えー
えー
こういうところを
ひとつ

よろしく、いやだねぇ
まぁ、きみがわるいね
そっち
いっとくれっ

あぁあ
おこられちゃった

そうだよなぁ
くびなんてぇなぁ
かうしと
いやしねぇや

あー
しょーがねぇーなぁ
シー
でもなぁ
だまってるわけに
いかねぇしねぇ

くびはいかがさま

くびやくびくび

くびはいかがさま
ちょいとぉ
あかんぼうが
寝たばっかりなんだよ

おおきなこえださないでおくれ

あー
こえがかかったな
とおもったら
こんどぁ

こごとだよ

おこられちゃったよ

おおきなこえ
だすなったって
こっちぁ
あきないじゃないか

だまってるわけにゃ
いかねぇんだよ

そぅだ
いくら
こうゆう
長屋
ぐるぐるまわって
おおきなこえ
張り上げたって

長屋の
かみさん連中
買ってくれねぇなぁ

くびなんてぇのは
いやだよなぁ

そうだ
りゃんこに
買ってもらおう

おさむらいなら
度胸だってあるしね
ことによると
買ってくれるかもしれねぇ
よしっ

屋敷町まわろ、

くびやくびくび
くびはいかがさま

くびやにござい

おー、異なあきんどじゃのぉ

三太夫
三太夫おらぬか


殿
お呼びでございますか

なにやら
窓下をな
くびやくびくびと
通行するものがある

まことの
くびやであるかあるいは
くりやの聞き違いであるか

ちと
つかまえて
問いただしてみよ




かしこまりました


くびやであったならばな
庭へ案内いたせ

ほれ
三日前に
新刀をもとめたのぅ

切れ味を
試してみるわ

はは
かしこまりました

あいや
そこの町人

ありがとう存じます
あっしのことですか

そのほう
今なんと申して
通行いたした

くびやくびくびと
申しましたんで

お耳触りでしたら
ごかんべん
ねがいますんで

いや
そうでわない

えー
くびや

なんのくびじゃ


なんのくびっていいますがねぇ
あっしの
くびなんで
ごわす

そのほうの

くびか

しかと
さようか


鹿じゃぁねぇんです
ぁの
ちゃんとした
人間なんです

それわぁわかっておる

ことによると
殿が
お買い上げになるかもしれん


こちらの
殿様がぁ

それがしに
付いてきなさい

ほぅですか
どぅ

ありがとう
存じます

いゃあ

けっこうな
お庭ですね
どうも

ひろいしねぇ
そうじ
たいへんでしょうねぇ

だまって
ついてくるのじゃ

ここにひかえておれ

殿
庭に
案内を
いたしましたが

おー
さようか



そのほうが
くびやであるか


どぅも
おはつにおめにかかりやす
よろしく
おたのもうしますんで


そのほう
くびを
てばなすようじゃが
よが買い求めても
差し支えあるまいの

殿様に買っていただきゃあ
こんな
うれしいこたぁ
ござんせん


首代金は
いかほどであるか

えー
えー
十両で
首が飛ぶ
よのなかでござんす
おまけもうしまして

七両二分
頂戴いたします

七両二分
おー
やすいのぅ
そのほう
首代金
いずれの者に
手渡すか

親か
兄弟か

いぇ
あっしが
貰っていきます

これこれ
うろたえるな

そのほうは
首を手放すのじゃ
七両二分は
親元へ届けるか
あるいは
親類の者へ

えー
あっしが
もらっていきたいんで
ござんす
えぇ
どうせあっしはねぇ
極楽へ行けるような
もんじゃ
ござんせんで
地獄にまわされると
思うんですがねぇ

三途の川ぁ
渡るんでも
銭がねぇことにゃ
乗せてくれませんでねぇ

ですから
七両二分
懐に入れて
あっしゃあ
いきますんで

おーー
三太夫
だいぶ
うろたえておる

不憫じゃ

七両二分
手渡してやれ

どうじゃ
勘定いたせ
足りないと申しても
戻ってはこられんぞ

へぃ
確かに
七両二分
頂戴いたしました

懐へ
入れました


さようか
しからば
買い求めるぞ

へい
よろしく
おたの
もうします

これっ!
支度をいたせ

ははぁっ

中間が
何人か出てきました

一人の
中間が
庭の真ん中へ
ムシロを敷きます
首屋が
その上に
座り込む

もうしとりの中間が
水をいっぱい張った
手桶を
持ってきます
三太夫さんが
新しい刀を
殿様に
手渡す



鞘ぁはらって
差し出しますと
三太夫さんが
柄杓に
水をくんで
ツバもとに掛けます

これが
すぅっっっっと
走る

帽子先から
ぽたり


ぽたり

首屋
そのほうの
首を
買い求める

なにか
言い残すことはないか


この世に
未練は
ねぇつもりで
あきねぇに
へぇりましたが
そぉ
おっしゃって
いただきますと
甘えたくなりますんで
娑婆の見納めを
さしていただきとう
ぞんじます

むこうの
木戸を
つんとぉ

開け放って
いただければ
ありがたいんですが


無理もなかろう

三太夫
木戸を
開けて


首屋
見ろ
木戸
開いておるぞ

へぃ



へぃ
ありがとう
存じます

じゃぁ
殿様

十分に
お買い上げのほどを

度胸があるのぉ

買い求める
よいか



ぇええーっ
首屋が
ひょいっと
体を躱します
傍らの
風呂敷包みから
張り子の首を
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ
これこれこれこれ
これは張り子
その方の首じゃ

こらぁ
看板でござんす




2009年7月2日木曜日

稽古初日、2009.7.1


三遊亭圓窓師匠のもと、
一対一の初めての
稽古です。
「首屋」です。
これは映画になっても

いいような噺です。

でもね、

いいんでしょうか
こんな贅沢。
なにか隕石とかが

頭に当たったり
しませんかね。
たったひとりで、

師匠の噺を
独り占めですよ。
親戚には

頭を小突かれそうです。

その迫力ったらない。
「帽子先から、、、、

ぽたっ、、、、
ぽたっ、、、、」
そこに刀が見えましたね。
いや、黒沢映画なら

間違いなく次の瞬間
血しぶきが
あがっていますね。
いや、もう血しぶきが

見えていましたね。
思わず息を止めました。

あ、話は変わるんですが、

私以前
ダイビングをしてましてね。
水に潜るやつです、

空気のボンベを
背負ってね。
これが、海の上ですよ、

さあこれから
潜ろうというときにはね、
潜る人たちみんなで

申し合わせて、
せぇのっ、で、
潜るんですよ。
でね、私はね、いつも、

ブクブクって潜らないの。
ジャボって頭が入るでしょ、

するとね、
自然に息
止まっちゃうんですよ。
そう、2,3メートルは

沈んでからやっと
ブクブクって始めるんですよ。
こう、水の中に入るのって

緊張するでしょ、
さあ、これから、

くるぞって、
いや、何が来るわけじゃ

ないんだけど、
ね。

それなんですよ。

ここ、三太夫が刀を
イジイジしているあたりで、
もう息は

止まっちゃいますね。

さあて、その後は、

といったところで。