落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

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2012年5月24日木曜日

紅白の提灯はおめでたさがつたわってきます



今日はいいお天気です。
ちょうどいい青空にちょうどいい風です。

人が立つと、足下から影が路にのびます。人とは別モノのように。
雲にも影があります。それは雲自身の至る所にあります。それは雲とは別モノではなく雲それ自身です。影が雲を浮き立たせ、影が雲に味わいを付けています。

落語をやるときも落語自身の影を作ることが大切だと思います。
影の無い明るさは、平板で味わいの無い醤油だけのお吸い物のようなモノです。

落語での影とは何かなとちょっと考えてみると、まだよく解らないけど、もしかするとそれは悲しさや寂しさや切なさややるせなさのようなモノかもしれません。

モーツァルトの修飾音符のような、聞こえないくらいの言葉や、目立たないくらいの小芝居がいい出汁になると思います。まあ、細かく気持ちの動きを表現しようと言うことなんですが。

これが芝居や映画なら、演じるだけですが、落語は状況を伝えることも必要なので、喋らないほうが気持ちが伝わるというような目の芝居を多用できません。そこで細かな心の動きを「独り言」として喋って伝えたりします。

言葉に影を持たせることは、気持ちに影を持たせることです。

笑いながら話す落語家の話はつまらないことの訳のひとつかもしれません。





2012年5月15日火曜日

したっけなげるんでない







「化け物使い」の杢助(もくすけ)がわざとらしい田舎者になってしまうので、思い切って北海道弁丸出しでやってみました。
するとこれが実に自然、当たり前で、北海道弁の稽古は長年やっていたわけですから。
やりながら懐かしくなってしまいました。

2012年3月14日水曜日

外人といってもいろいろだから、きっと宇宙人といってもいろいろなんだろうなあ


米フロリダ州ドラルのTPCブルーモンスターでの男子ゴルフの世界選手権シリーズ、キャデラック選手権最終ラウンド中継を観た。

ジャスティン・ローズの通算16アンダーを1打差で追うブバ・ワトソンの最終ホールのバーディーパット、およそ2メートル80センチの僅かなフックライン。これが入れば、首位で並びプレーオフとなる。

満員となったスタンドからの響めきの中、レフティーのブバ・ワトソンの屈んだ黒い背中から白いボールが静かに右に走り始める、グッと見ている者全ての呼吸が止まった。

そして、ボールはスルスルとカップの2センチ横を掠めて、コロコロコロと20センチ先で止まり、ジャスティン・ローズの米ツアー通算4勝目が決まった。

ボクはフワッと息を吐いて、笑った。

ん、この笑いはなんだろう。

これは落語の笑いに近いものなのか、遠いものなのか。

2012年3月12日月曜日

炭酸水って言いやすい


「そば清」を稽古していて思うのだが、これって笑えるのかなと、いや、そもそも「滑稽話は滑稽なのか」ということで。テレビに溢れている「お笑い」や若手芸人達のバラエティに湧き上がる笑いは明らかに滑稽だから笑っているのだけれど。「滑稽話は滑稽なのかな」と考えてしまう。

場内のお客様にチケット番号で景品が当たるくじ引きをする。
番号札の入った箱から芸人が1枚引いて、読み上げる、
「Cブロック、カザフスタン」
「ワールドカップか」

そこにある笑いには「展開の意外性」がある。

落語にも「展開の意外性」はあるのだろうか。
いや、おそらく、何度も同じ話を聞いているお客様に落語は「展開の意外性」を持たないだろう。

それ以外の滑稽の要素を捉まえないと滑稽な話にならないわけだが。つまり、ギャグ以外で落語は勝負するというわけだが。

それはなんだろう。


2012年2月23日木曜日

耳を両手で押さえるとゴーゴーとウルサイのはなぜ


「そりゃぁないだろう」と思わず呟くようなことがあってこそ、おかしみが湧き上がる。
「心の平衡」が崩れる、いや、やや傾く程度でも、それを戻そうとして「笑い」が生まれる。

「調和」を揺らすこと、これが落語の特徴だ。
そして、「笑い」で「調和」に戻したらまたすぐに揺らす、その振幅は話が進むほどに大きくなる。

その方法は落語家百人百様だ。ただその百人の大半が揺らすことばかりに気をとられ、肝心の「調和」を作ることに注意を向けないのはなんとも悲しい。

映画「スナイパー」原題「The Contract」を観た。主演のモーガンフリーマンは殺し屋だが、「調和」を湛えた殺し屋だ。モーガンフリーマンの最後の台詞を聞いたとき、思わず微笑まずにはいられなかったのは、それまで1時間半もかけて築き上げた殺し屋の「調和」から大きく傾いた事を知ったからだ。
(宗教から離れた視点から観ても)

モーガンフリーマンが落語をやることはないと思うが、全身で表す「人間性」には感心するばかり、おそらく落語をやってもすばらしいと思う。


2012年2月20日月曜日

ひっくり返せないプリンなんて


そもそも古くから男性は外敵から女性を守る役目だった。その外敵が姿を見せなくなると、その役目に相応しいような男は不必要とばかりに目を背けられる。

現代において、女性の敵は遠く異国からの侵略者ではなく、協調すべき身近な者達である。それは例えば、上司であり、先生であり、親族であり、同僚であり、夫の前妻であり、彼のモトカノであり、親しい女友達等である。

これらは、撃退する敵ではなく、協調する敵である。
そこにはもう敵を殲滅して守るような存在としての男の居場所はない。
求められるのは、協調の中で疲弊した彼女たちを癒やし甦らせる男である。

「嵐」が作り出す「和み」と「笑顔」は現代の新たな男の理想を示しているのかも知れない。


2012年2月19日日曜日

熱いコーヒーに焼酎


男には望ましい男の姿がある。

西欧では騎士、アメリカではカウボーイ、マサイ族では戦士、そして日本では侍である。

しかし、これらはいずれも支配者ではなく従者である。なぜ、王様や牧場主や酋長や殿様ではないのか。

男の理想とは自らの満足ではなく、何者かの満足を得る事ということか。

「お馬先で討ち死に」、殿様の目の前で敵に切られる、これこそが武士の最も誇らしい事だとされていた。

そんな武士が「岸柳島」には出てくる。


落語を聞いてて寝ちゃっても不思議と落ちの前には目が醒める


目技とでも言おうか。
言葉を発しない芸。
落語のなかで、「ここ」というところで出す芸がある。

幾つもの複雑な感情を敢えて言葉を使わずに表現する。

「岸柳島」も「愛宕山」も、「ここ」という所を見せたい。


2012年2月17日金曜日

東京は雪です


7.鴨志田亭金頓
「強情灸」

8.麹家遊三ん
「道灌」

9.春乃家有楽
「六尺棒」

10.千一亭志ん諒
「宮戸川」

11.N文亭八叟
「小言幸兵衛」



2012年2月16日木曜日

白ワインのホットワイン


今日は「岸柳島」の原稿を仕上げていた。今回のテーマは「鼻濁音」だ。「鼻があぐらかいててワニグチてんで」などはなかなか手強い。

舟上の話なのだが、やはり揺れた方が良いのかな。「船徳」で「酔っちゃった」てお客さんがいたからなぁ。

二人の町人の演じ分けが課題。


2012年2月15日水曜日

落語は学び


子供に勉強をさせるのはなぜか。
子供に幸福で在ってほしいからだ。

幸福は希望の内にある。
希望は未完成の内にある。
未完成は学びの内にある。
幸福は学びの内にある。

学生は学生だけで幸福だ。
そして、人は誰でもいつでも学生で在れる。

自分が勉強をするのはなぜか。


たしかに「放送大学」には手軽な幸福が在るなぁ。
おっと、放送大学の回し者みたいになっちゃった。


2012年2月14日火曜日

花は桜木


いい発声も、いい演技も、それが落語の主たる要素ではないと書いたが、では主たる要素とは何か。

それは「心」だと思う。

落語は話芸だから口で話し、耳で聞くものと言うが、厳密には誤っている。
落語と反対の例として、古い「ニュース映画」のナレーションを思い出してほしい。
借り物の言葉、借り物の声、そこにナレーター自身は存在しない。

落語の中には、何を言ってるんだか、どんな話なんだか、さっぱり解らないのに、やたら可笑しく、気持ちを揺さぶられる芸がある。
これは、時として素人にこそ見ることが出来る芸だ。

以前一緒に落語をした「千葉ちゃん」さんや、今一緒にやっている「なおき」さんの落語がいい例だ。どちらも、表面上未完成な落語ながら、思わずわき腹をおさえて笑ってしまう。

落語界には「真打ち」という称号がある。どのような謂れなのかは知らないが、ボクが思うに、落語が「心」の芸なら、「心を打つ」から「心打ち」となったのではあるまいか。

ならば「千葉ちゃん」さんも「なおき」さんも「心打ち」に違いない。


雪の中で線香花火


アナウンサーが、役者が落語をやると下手だ。
いい話をしている人もいるのかもしれないが、いままで残念ながら見たことがない。

思うに、いいアナウンサーだから、いい役者だから、落語が下手なのだろう。

落語は他者性の表現を自己として行うこと。
それに比べて、アナウンサーも役者も、
その仕事は他者性の表現を他者として行うことだ。

いい発声も、いい演技も、それが落語の主たる要素ではないことの証でもある。



2012年2月12日日曜日

「血がでている」、血のことをずっと「ちが」だと思っていた子


落語が面白くない理由の一つに演者の「独善性」がある。
もとより独善性とは自分だけが正しいと思い、他者の意見を聞き入れないことだ。そんな人が落語をやって面白いはずがない。

なぜなら落語はお客さんと作り上げていく芸だからだ。その同時性は繊細な情報交換の上に成り立つ。「ああそうか、ここでこうするといいんだな、よし、それならこれでどうだ」と常に考えながら、受け入れながら進めていくのが落語だ。

ならば謙虚であればいいか、いいや、「独善性」は時として「謙虚な態度」に内包されていることがある。もちろん礼儀を踏み外してはいけないが、落語は謙虚にやってはならないと思う。それはその向こうにちらちらと独善性が垣間見えるからだ。

お客さんの反応第一に演る、のびのびと一所懸命演る、ドンドン積極的に演る、率直に素直に演る、これが落語だ。

自分の非を積極的に認め、いつもよりよい方向に修正していく、今、この時、この瞬間に、お客さんと一緒に作り上げていく、それが落語だ。


2012年2月5日日曜日

音楽配信の「WMA」って「ウマー」


女性落語家は男性落語に比べて不利であるかのように書いてしまったが、そうとばかりは言えない。

「立派さ」に対極をなすもに「可愛さ」があるからだ。極端な例かもしれないが水森亜土さんが落語をやったらきっと素晴しい高座になると思う。もちろんキチントした落語になっていなければならないが。

「愛され何某」といったキャッチコピーを女性ファッション誌に良く見かける。今時の女性の目指しているものか。

すれば、「愛され落語」を目指すことこそが今時の女性落語家の在り様かな。

いかが。


2012年2月4日土曜日

さあ、豆蒔くぞ、みんな外の庭に出ろ、えっ、なんでって、おにわはそとだろ


少し前に書いたことだが、母は有り難い。立派だ。いや、それは母ばかりではない、母性を持つモノ全ては有り難い。すなわち、女性はまさに有り難く、女性はそれだけで立派である。

だから、もしかすると、女性が落語をやるとつまらなくなる原因はそこにあるのかもしれない。

そりゃ、立派だなと思ったら、とても笑うなんて畏れ多いことだ。
いや、これは嫌みではない。キチントしていればいるほど、その人を前にして、笑っては失礼という構えが出来てしまう。

人は丁寧に挨拶されると、反射的に丁寧に挨拶を返すものだ。
礼儀正しく立派な人の前では、反射的に礼儀正しく立派な人になろうとするだろう。

立派な語り口の落語なんて面白くないよ。

だから、女性の落語家は、女性の立派さをどこかで破らなくちゃならないと思う。

そして、その一つの手段として「迷い、悩み」があるように思う。

それは、立派な人は、言い切る、断言する、決めつける。
だから、女性落語家は、まず、迷い悩んでいる自分を見せることで、立派の色を薄めよう。

メイクも髪も衣装も立派な方への方向性を持っている。できるだけおさえよう。

笑いやすい環境を作って、やっと男性落語家と同じスタートラインに立ったと言える。

そして、勝負だ。これなら、後は実力次第。

女性落語家の不利な部分はそこだと思うのだが、いかがでしょうか。




2012年2月2日木曜日

ヌルイお湯のほうが汗をかくというのでヌルイお湯に入ってたらどんどんヌルクなっちゃった


アメリカの漫談は、内容が大事だが、日本では内容よりも「馴染み」が大事だと聞いたことがある。

「こいつは面白い」と思ってくれないと、日本人には受けないということらしい。

そう考えると、「まくら」は馴染むためにあるのかもしれない。

まくらでワラってもらうことがいかに大切かは、前回の志ん諒の会で実感した。

なんでもない火焔太鼓の入りから、笑い声が手拍子のように聞こえて、のれた。有難かったです。



2012年2月1日水曜日

好きな半熟卵ぐあいは湯が温まってから8分


調べると、「換骨奪胎(かんこつだったい)する」とは「古いものに新しい工夫をこらして再生する」こと。

落語は一席一席がその作業だ。

ところが、いろいろ落語を見ていると、「再生」されていないものが多い。

同じ「根」から再び新たに生まれてこその「再生」だ。
それは、アスパラやインゲン豆を育てるのと似ていて、元の部分を大切にしないとイイものにはならない。その元の部分とは何か。

一つにはその落語の「心」だろう。「精神」と言ってもいい。

ギャグを挿入するのも結構だが、そのために「心」が損なわれてはなんにもならない。

ことさら、古い時代設定の「心」は現代の「心」と大きく異なる。その違いこそ、細心の注意を払って作り上げなければならない。言わば建物の柱なのに、それを蹴倒すようなギャグを入れたりする。あっという間に話は瓦解していく。

理想の話は笑いの量を目指すモノではない。
それは理想の仕事がカネの量を目指すモノではないことと同じだ。

落語が目指すモノは何んだろう。
自分と一緒に落語をやる人たち全てにもう一度考えてもらいたいと念うなぁ。


2012年1月31日火曜日

アルプスでのこと、裸でハイキングしていた人に罰金100スイスフラン(8337円)、なるほど「アルプス1万弱」


千一亭志ん諒「火焔太鼓」第6回志ん諒の会






















来週はスーパーボウル、6日月曜日朝8時から生中継。

誰もがきっと感じていることと思うが、録画して見るのと、ライブで見るのとでは違う。
HD録画で、ニュースを全く見ないで、ライブと同じ条件で録画を見ても、ライブとは違う。

それは、またまた当たり前のことだが、
録画は「今」では無いからだ。

録画を見ようと再生ボタンを押したときに、その試合は「○○試合」という作品を見る意識になっている。映画を見たり、演劇を見たり、講談を聞いたりするのと同じ意識だ。

生中継は「まだ出来上がっていない作品」だから違う。
そこには「今」を共有する意識がある。

落語の本来の姿はそれだろう。
寄席で「演目」が無い事の訳だ。作品を見るならDVDでいい。

落語は作品を演じるのでは無い。そのつど、作品を作り上げていくのだ。

一席一席が新たな作品作り。毎日の料理と一緒だ。だから何度聞いても美味しいモノはまた新しく美味しいのだろう。

「演目」を敢えて書かないのが本来の落語。

「落語は作品を演じるのではない、作品を作るのだ」
自分自身もそうだが、
これこそが素人にありがちな落語への最大の誤解だ。


2012年1月21日土曜日

ガラスの曇りに寒さを感じる


「NHK SONGS プレミアム 財津和夫」で財津さんが「小田(和正)さんは自分の核に向かって真剣に唄う」と言う。
「自分の魂に向かって唄う」と言う。

番組には「カタルシス」があった。それは、小田さんが財津さんに渡した曲が、1年たってやっと出来上がり、曲を受け取って聞き終わった時、涙目で「そうゆうことです」とディレクターに向かって呟く瞬間だ。

「ああ、この番組はここから後がどんなに雑でも、これがみられたから、それで満足だ」と思った。

エンターテインメントであるということはこの「カタルシス」があることに他ならない。

それこそ落語の核だ。