落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2012年1月31日火曜日

アルプスでのこと、裸でハイキングしていた人に罰金100スイスフラン(8337円)、なるほど「アルプス1万弱」


千一亭志ん諒「火焔太鼓」第6回志ん諒の会






















来週はスーパーボウル、6日月曜日朝8時から生中継。

誰もがきっと感じていることと思うが、録画して見るのと、ライブで見るのとでは違う。
HD録画で、ニュースを全く見ないで、ライブと同じ条件で録画を見ても、ライブとは違う。

それは、またまた当たり前のことだが、
録画は「今」では無いからだ。

録画を見ようと再生ボタンを押したときに、その試合は「○○試合」という作品を見る意識になっている。映画を見たり、演劇を見たり、講談を聞いたりするのと同じ意識だ。

生中継は「まだ出来上がっていない作品」だから違う。
そこには「今」を共有する意識がある。

落語の本来の姿はそれだろう。
寄席で「演目」が無い事の訳だ。作品を見るならDVDでいい。

落語は作品を演じるのでは無い。そのつど、作品を作り上げていくのだ。

一席一席が新たな作品作り。毎日の料理と一緒だ。だから何度聞いても美味しいモノはまた新しく美味しいのだろう。

「演目」を敢えて書かないのが本来の落語。

「落語は作品を演じるのではない、作品を作るのだ」
自分自身もそうだが、
これこそが素人にありがちな落語への最大の誤解だ。


2012年1月30日月曜日

あと1日で2月か

さて、「こんな料理を作っちゃいましたのコーナー」の4回目。


今日は「芋けんぴ」。


用意するのは、コップ、サツマイモ、油、砂糖。


サツマイモを8ミリ角ぐらいに切り、ヒタヒタの油、中火で14分揚げる。


砂糖をフライパンで暖めて、溶けたら、コップの水にポタッと落としてみて、
フワット溶けないで、コップのそこまで塊で沈んだ頃合いで、溶けたフライパンの砂糖に、一気に揚がったサツマイモを混ぜて、白く砂糖の結晶で飾って出来上がり。


自分で作ると、外がカリカリ、中がフンワリとして、味自慢、10GOOD!(テングー!)


アキレス腱にホッカイロで全身ホカホカ






「宮戸川」の落ちを古今亭志ん朝師匠は「紙が破れていて」と「テープが切れていて」と二通りの録音を残しているが。

今回の落語会で、いずれでも無い今時のヤリカタを試してみようと思う。


ジャガイモは根っこの周りにくっついているのだが、ビー玉位の、あんなに小さなものまで、ビッシリついているとは思わなかった



「山田風太郎が見た日本 未公開日記が語る戦後60年」を見た。

戦後の記録映像が流れる。

フィリピンルバング島で30年、戦い続けた少尉 小野田寛郎(おのだ ひろお)さんが帰国し、タラップの下で待つ母タマエさんの前で直立している。カメラはその背中越しに母の感涙を写した。

母は有難いなぁ。
小野田さんの顔は見えないが、その嬉しさを思った。

タマエさんはボクの母と同じ「教師」だったそうだ。





パンクレオチミンコレシストキニン


「夕陽を見るX氏」、別役実さんの短編だ。

何度も何度も読んで、いつか、落語のように、ソラで話せるようになってしまった作品。

20歳の頃だったと思う。夕陽で身体が真っ赤に染まっていくX氏を思って、その温かさに浸っていた。

今夜、とても好きな歌の一つ小室等さん(六文銭)の「雨が空から降れば」の作詞が別役さんだと知った。




友人が「シナリオ作家セミナー」に通っていたことから、一度だけ別役さんのお姿を拝見したことがある。不必要なモノを削ぎ落とした繊細な風貌、イイものだけで出来上がっている人といった佇まいだった。

「雨が空から降れば
オモイデは地面にしみこむ
雨がシトシト降れば
オモイデはシトシトにじむ」

別役さんは、そんな自分でいいと言う。

「しょうがない 雨の日はしょうがない
しょうがない 雨の日はしょうがない」

そう、ボクのオモイデも、けっこう雨で洗われている。

雨はオモイデから埃も汚れもシミまでも、すっかり洗い落として。

いつのまにか、ドロドロのボロボロだったオモイデさえも、
「想い出」になっている。



2012年1月29日日曜日

さては、うそツイッターでしょ


「北海道の美しい景色を紹介するコーナー」の3回目。

今日は「霧の中」。

北海道の夏、道東、海辺。

良く晴れた日に、海から霧が襲ってくる。
映画「ミッションインポッシブル ゴーストプロトコル」に出てくる「砂嵐」のように。
ただ、それよりはもっともっと静かに、ゆっくりと上陸してくる。

そんなとき、砂浜を歩いていて、霧に包まれた。
濃霧だ。50センチ先からは真っ白。
それだけでも凄いことだが、空を見上げると、
なんと、体の大きさぐらいに、白い中に青く、ぽっかりと丸く
空が見える。

スキューバダイビングで小魚の大きな群れに囲まれたときに、海面を見上げたときと似た景色だ。

そこに世界への窓ができていた。

北海道の夏は、ダイナミックにファンタジーだ。


2012年1月28日土曜日

ホテルカルフォルニアにはない1969年もののSPIRITを呑みやがれ


こんにちは。
「こんな建築、インテリアに驚いちゃったよコーナー」の二回目ということで。

先日雪がふった朝に、辺りの雪景色をみていて思ったこと、
屋根の雪止め金具の所が黒くシルエットになっていた。

大きな屋根だと、これがアクセントになって美しい。

驚いちゃった。

雪が溶けて、陽光の下で見ると、こんどは雪止め金具の陰がキルティングのスティチのようだ。

どうだろう、屋根の雪止め金具で文字を書いてみては。それとも、なにかデザインしてみては。

街の景色がさりげなくポップになると思うのだが。



2012年1月27日金曜日

歯医者は時々左右を間違える




千駄ヶ谷の商店街に掲げられた高張り提灯。めでたいなあ。

さて、「こんな料理を作っちゃいましたのコーナー」の三回目。

今日は「餅ピザ」。

用意するモノは、アルミホイル、さとうの切り餅、トマト、レトルトのミートソース、溶けるチーズです。

餅は厚みを半分にするように切ります,ケガしないように気をつけて。
お皿にアルミホイルを敷き、そこに、切った餅、ミートソース、輪切りのトマト、溶けるチーズをのせてオーブントースターで焼いて出来上がりです。
焼きすぎてデロデロにならないように気をつけてね。

ホットワインと一緒に、夜中の小腹満たしにどうぞ。



クリムゾンレッドとチタニウムホワイト





なったらいいな、と思うと、なっちゃう世界。

「PROTEIGON」はそんな世界。

そんなわきゃないよ、と思うけど。

思い返すと、いままで、けっこう、なっていたりするよ。

だから、なったらいいなは、何時も思ってる。

今はならなくても、なっちゃったりして、ね。


2012年1月26日木曜日

バンダイキブラウンとプルシャンブルー


BS世界のドキュメンタリー、「ガスランド ~アメリカ 水汚染の実態~」を観た。

アメリカがガスランドなら、日本は何ランドなのかな。

本当にドリームランドなんてものは昔の夢になっちゃったのかな。

そうそう、懐かしい、大船のドリームランド。

エネルギー問題も、あのころは大船に乗った気持ちだったなあ


男盛りっていつのことかなぁ、そういえば「ザカリー」って名前あったなぁ





今日の課題曲は「Jamiroquai, Cosmic Girl」

早い、とにかく早い。
「2012年のテーマはスピード」と先生。

このPVにはフェラーリが出てくるが、フェラーリのV型12気筒エンジンのようなリズムで叩きまくりです。


2012年1月25日水曜日

テニス全豪オープンベスト8、錦織圭もアンディ・マリーも6人の線審までも真っ赤なウェアってのは何か訳があるのかな


今日から始まりました新コーナー「こんな建築、インテリアに驚いちゃったよコーナー」。

今日は「水の上に浮かぶ壺」。

どこか海外のホテルのロビーだった。四角い水盆の真ん中に壺が浮いている。浮いていると言っても、漂っているのでは無く、しっかりと水の中に立ち上がっているのだが、水深は30センチぐらいか、水中には何も見えない。

その壺にスポットライトが当たっているわけでは無いのに、その不思議な光景に、辺りのレイアウトはかき消されてしまった。

驚いちゃった。

で、よーく近づいて水の中を覗き見ると、

壺はアクリル製と思われる円筒形の台の上に乗っていたという訳でした。


2012年1月24日火曜日

モルジブの海は無色、ガラスのようだと思った


「北海道の美しい景色を紹介するコーナー」の二回目。
今日は、釧路の近く、パシクル沼 (写真)を「歩くスキー」で踏破した時に見た氷です。

同級生の工藤先生と新谷先生と三人で、極寒の氷原を歩きました。氷点下の世界では、いろいろなモノがキラキラと煌き、目を細めないと歩けないほど。

ずいぶん歩いて、たどり着いたパシクル沼の奥に、なぜか沼の氷が盛り上がって大きく割れているところがあった。

その氷の色は、緑色。
といってもとうてい表現できない、青から黄色からいろいろな色が見えてくる深い緑いろだった。

そんな氷は他では見たことが無い。
沼の水が作った不思議な色。

きっと、このパシクル沼でなければ見られない氷だったのかもしれない。


サーモンとトマト



もうすっかり雪は上がり、雨どいからは雪解けの音が聞こえる。東京はこれからさらに寒くなっていくのに、この気分は北海道の春だ。気持ちがちょっとワクワクしてくる。北海道では雪解けと共に一斉に花が咲き始める。まさに「春」を劇的に体感できるのが雪国だ。

その楽しみのために半年近くもの間、寒さと一緒に暮らすのかもしれないなあ。



2012年1月23日月曜日

雪はワクワクするがミゾレはどこか切ない


偉人田中正造話をNHKで観た


「人類は万物の奉公人でいい」

霊長と思ってはいけない

「川は流れたいように流してあげよう」

人が思うようには流れない


いい言葉だなぁ。
じっくり味わった。



早寝して朝のテレビでアメフト中継、初めて見ました延長戦




第6回独演会
志ん諒「火焔太鼓」
有楽「火事息子」
志ん諒「柳田格之進」
でした。

最後まで聞いて下さいました27人のお客様になにより感謝いたします。
そして、いつも運営して下さいます千一亭落語研究会の皆様に御礼申し上げます。

第7回は3月4日(日)3時から
「愛宕山」他一席で、
ゲストは馬ん咲さん、遊三んさん、
女性落語家のお二人を迎えて、華やかに賑わう会にしたいと思っています。
是非、お時間がありましたら、ご来場いただければと思います。

写真は、ボクのラグビー仲間、浅野先生と徳永先生です。打ち上げの最中に、やってみちゃうかというノリで高座に上がりまして。黒羽二重五つ所紋付の浅野先生は「ちょっとここで話すのって気持ちいいね」と。大島紬の徳永先生は「人種差別意識とラグビー」というテーマで一席と。お二人とも立派な初高座でした。


2012年1月22日日曜日

色っぽい大きな声にびっくりして振り返ったら猫だった



今までこの独演会は不思議と雨に降られたことが無かったのだが、今回はこんな空模様、いつも外に看板を立てるのだが、といっても、紙をつぎはぎして作ったモノ。雨に舐められたらひとたまりもなく、どうしようかと思っていたが、なんと、雨があがり始めて、いまはもう止んだ感じだ。有り難いなあ。

というわけで、看板も出したことで。3時から開演です。


2012年1月21日土曜日

いよいよ明日だなぁ


プログラムと次回のチラシを印刷して、ドラムを片付けた、よしっ、と。
今日は12時前に眠るぞ。と思ってもこれがなかなか難しい。

では、おやすみなさい。


机の脚につまづいた時くらい誰にも文句を言えない痛みはない



またまた「こんな料理を作っちゃいましたコーナー」第二回です。

今日は「スクランブルエッグ」。
用意するものは卵、牛乳、マヨネーズです。

フライパンで、使う卵全体の黄身の量くらいのマヨネーズを溶かし、そこに卵を入れて、牛乳をお好みの量加えつつかき回して出来上がり。

上にちょっとコショウを振って、パセリのみじん切りを乗せて、「おはよう」なんてのはいかが。


ガラスの曇りに寒さを感じる


「NHK SONGS プレミアム 財津和夫」で財津さんが「小田(和正)さんは自分の核に向かって真剣に唄う」と言う。
「自分の魂に向かって唄う」と言う。

番組には「カタルシス」があった。それは、小田さんが財津さんに渡した曲が、1年たってやっと出来上がり、曲を受け取って聞き終わった時、涙目で「そうゆうことです」とディレクターに向かって呟く瞬間だ。

「ああ、この番組はここから後がどんなに雑でも、これがみられたから、それで満足だ」と思った。

エンターテインメントであるということはこの「カタルシス」があることに他ならない。

それこそ落語の核だ。


気持ちだけは何時でも野生動物さ☆



落語の稽古をするつもりが映画「最後の忠臣蔵」を見てしまった。

「身共(みども)は」と言っていた。
「町家(ちょうか)」、「武家(ぶけ)の女」とも言っていた。

役所広司さんの嬉しいときも目じりが少し下がる程度の抑えた表現が、とても誇り高き真摯な武士らしかった。
また、困ったとき、返答に窮したときの、困惑するが視線を泳がさず、真っ直ぐ見据えながら、しだいに目に力を入れながら見開いていきつつ静かに言うあたり、

こんな時間になってしまったが、とても勉強になった。



2012年1月20日金曜日

羊羹も京菓子だったのか



こんな料理を作っちゃいましたコーナーです。

今日はダイコン焼きです。
用意するものはダイコン、乾燥桜海老、長ネギ、薄力粉、味ポン、七味唐辛子、ゴマ油です。

作り方は、大根を頑張っておろします。そこに桜海老、長ネギをみじん切りにしたものを加えて、薄力粉でトローっとなるくらい、お好み焼くらいにします。お水は加えません、ダイコンの水分だけで生地にします。

ごま油で薄く、カリッと焼き上げて、味ポンと七味でいただきます。

お供はビールか熱燗で。


お茶漬けのお茶は何がいいのかな



ソーシャルスキルのない人のためのソーシャルネットワークだという社会批判が映画「ソーシャルネットワーク」に込められているといわれるが、すると、何億人という人たちが使っているのだから、この社会の大きな部分がそんな人たちからなっている事になるが、そうかな。

「モテキ」という話ではもてるスキルの有無が論じられているが、もてるとはそうゆうことだろうか。

社会がスキルの有無で論じられるから、心の通わない制度だらけになっているのだろう。

せめて、千一亭はスキルより心を大事にする場所にしたい。



日本のタンポポと西洋タンポポとの覇権争いは今どうなっているのだろう

明後日のプログラムを作っている。落語をやるのも好きなのだが、その印刷物を作るのも嫌いではない。

毎回体裁を変えている。今回は字を大きく読みやすく、中入りの時間を楽しめる程度の文章量でまとめてみた。

あとは、アンケートと外のサインだ。



雪がふったら黒いセーターで出よう、袖に雪が乗れば雪印マークの結晶が見られるからね


イギリスのドキュメンタリーで、機内食を美味くするシェフの話があった。
高高度に加えサハラ砂漠より乾燥している機内では味覚が変わり、甘さ、塩辛さは鈍くなるが、なんと、「うまみ」は変わらないと言う。

このとき、吹き替えの声の切れ間に英国人のシェフの声で「UMAMI」とハッキリと言っていた。
対応する英語が無いのか、とすれば、なるほど「マズイ」料理が多いのも頷ける。

そして、そのためのモノとして、日本製の醤油、ヤマキの鰹節、スシ海苔、乾燥椎茸を使っていた。シェフの台所は日本語のパッケージだらけだった。

シェフの彼に「昆布茶」と「鰹節粉」があるよと言いたかったが。

やっぱり日本て美味しい国なんだなぁ。



2012年1月19日木曜日

初めて顕微鏡で半導体を見たとき、虹が固まった様な美しさにやられた


小さく「あー」と声を出し続ける。この発声練習をボイストレーナーの先生に教わってやっている。45秒が目標だが、今のところ大体30秒、いいときで35秒だ。

とん馬師匠が常に言っている「たっぷり息を溜めて話す」訓練だ。

腹筋でも、内側の筋肉を鍛えるらしくていいのだが、どうもこれは太鼓腹を凹ますにはあまり効果はないようだなぁ。


雪の歌は涙の歌が多いなあ


ブラタモリ「吉原」を見た。
えー、初めて見る景色で、いやほんと、ゴホッゴホッ、明日は雪になるらしいですね。

「船徳」「明烏」「幾代餅」を始めとするたくさんの落語が見えて、フムフムと頷いている内にあっという間に終わっちゃって、見返り柳状態。

再生紙を作る職人が吉原近くの「紙洗橋」辺りにいて、その人たちが溶かした紙が冷えるまでの間に、ちょいと吉原に行っては遊女をからかったところから「冷やかし」というんだとか。

「初回」、二回目の「裏を返す」までは「ぬし」と呼ばれて、三回目に登楼して「馴染み」となって始めて名前等で呼んでもらえたとか。

でもこの番組の中で一番可笑しかったのはタモリさんのつぶやき、
「NHKが、いいんですかねえ」。


2012年1月18日水曜日

いただきましたお酒で献杯させていただきました


「何かの形を描こうと思ったら、その周りを描きなさい」と言われたことがある。

絵画ばかりではないかもしれない。

実は今、いまだに柳田格之進の描き方に迷いがある。正直過ぎる男、疎まれる男、どう表現していいのか。正直でなく、いつも疎まれることを恐れている自分には極めて難解な人格だ。

そこで、周囲の人物、番頭、娘、旦那の表現を、今以上に柳田格之進と対照的に描くことで、柳田格之進を際立たせることはできないかと考えた。

あと3日、はたして。



昆布はヨロコブに繋がって縁起がいい。だったらタンコブはさらに当たってのことだから。


礼儀正しさとは理性がなすもの、人間的なもの。はたして、そうだろうか。

改めて言うまでもないが、礼儀正しいとは秩序を乱さない立ち居振る舞いのこと。

鴨の親子がお堀の静かな水面を並んで進む。飛び上がれば空に「く」の字の編隊飛行。お座りする猫、マンガのように足を投げ出して毒づく猫はいない。

動物は秩序の中で暮らしている。見方によっては、それは礼儀正しくもある。

礼儀正しさが人間的なのではない。その礼儀を壊してしまうもの、欲望や業こそが人間的なのだ。

見ると、動物の欲求はみごとに秩序の中に取り込まれている。べつに彼らは我慢しているわけではないと思う。そうすることが自然で快適だからそうしているのだろう。

礼儀正しくすることが欲求を満たし快適であるように暮らす。およそ難しいことのようだが、動物のような心持で暮らすということなら、ボクだって出来るかもしれない。

だって、ボクは哺乳類なんだから。


2012年1月17日火曜日

スーパー銭湯に行く人は多くないんじゃないかな、なんせ、数パーセントだもの


コスモスはどうしてあんなに細長いんだろう。
北海道、短い夏に手を振るように、コスモスが揺れる。

「コスモス姉さん」というお話があった。だれの作品か憶えていないが、どうして「姉さん」なんだろうと思っていた。

でも、ほんもののコスモスを見ると、ああ、これは「姉さん」だなと思う。その凛とした佇まい、たおやかな動きは「妹」ではない。

細く長く頭一つ出ているその姿は、どこか美しさの中にしっかりしたものを感じずにはいられない。

落語に「コスモス姉さん」のような人物は少ない。
落語はしっかりしていない、間抜けな、おっちょこちょいが多いから。どちらかというと、「妹」的な人物だ。

演者は自分の好みの人物に偏ってしまう傾向がある。
自分のことは棚に上げて、わりとしっかりした人物をボクは好む。

これは落語にはあまり良くないのかも知れないな。


というより、埋めた場所を忘れて掘りまくっているのが小動物だね



戦争は為政者が始めるものじゃなくって、軍隊がはじめるものらしい。軍隊は戦争をするためのものだから、戦争をしたくなるのも無理はない。ただ、戦争が終わったからといって、解散できないのが軍隊の辛いところだ。軍隊がある限り戦争は起こる。それは軍隊以外の仕事を解散した後に用意できないことが大きな要因だと、放送大学で高橋和夫先生が言っていた。

何かのためにいろいろと用意してしまったら、その何かが終わった後でも、用意したものがある限り、またしてしまうということで。

「ああ、高座を作っちゃったからなぁ」というのが、ずいぶんとボクを落語にのめり込ませているのかなぁ。

おっと、それじゃ、なにかい、落語はやっちゃいけないことのようだよ。

いやいや、のめり込むくらいはやっちゃいけないのかもしれないと、ここんところ思ったりして、なんせ、寝不足になってますから。こいつぁ、からだにいいわきゃないよ。

いゃ、わかっちゃいるけどやめられない。




小動物ってなにまで、犬は違うよね、猫はどう



京都では「振り売り」というのか、農家の方が町に来て野菜を売る。落語では「ボテ振り」という。天秤棒を肩に掛けて売る。

昔はそうやって、ほうぼう売り歩いていたものらしい。

小学入学前、苫小牧でも、覚えている。ただ、子供に関わるものしか憶えていないのだが。

ときどき、近くの公園にやってきた。
それは「バクダン」と「紙芝居」だ。

「バクダン」とは、お米を持って、お願いすると、機械の先に金網の筒のようなモノがついていて、お米をその機械に入れて「カラカラカラカラ」と暖めていると、終いに、「ドーン」と爆弾のような音がして、一気にその金網の中に、雷おこしのモトみたいになったお米が飛び出してくるというものだ。
それに、水あめをつけたりして食べた。子供にとってはこたえられないご馳走だ。

「紙芝居」もやってきた。「月光仮面、まぼろし探偵」なんかをやっていた。

とてもおもしろくて、大好きだった。
もしかすると、落語が好きになった、その始まりは、そんな公園の片隅にあったのかもしれない。



梅酒を燗して呑む


コンビニの並ぶ雑誌の表紙を見て思った。世の中いろいろだなぁと。並ぶ表紙のほとんどが女性の顔だ。それも、まさにいろいろ。

ただ、全体を似たものでくくってみると、多数をしめているのは素顔に近いメイクの顔だ。

今、美術館をはじめ、小さなカフェまで、およそ街の新しい文化の目指している方向性は、これはなんとなくだけど、「日本的で、ちょっとレトロで、清潔で、すっきりとした色使い、そしてなにより質感を大切にしている」ように思う。

素顔には質感がる。肌の質感を超えて、その本人の人の質感が素顔にはある。

雑誌の表紙に素顔っぽいのが多いのは、そんな方向性の一端かな。

扉、押ても引いても開かないなと思ったら、引き戸だった


「兄弟は兄弟だ」
映画「The Straight Story ストレイト・ストーリー」を観た。

ここのところ、アメリカといえばいい話は一つも無いといったありさまだけど、カルト映画に気合いを入れるデヴィッド・リンチ監督だけに、「アメリカにゃ、こんないいところがあるんだぜ」という気合いが伝わってくる。

いい人しか出てこない、いいことしか起こらない、だれもがみんな幸せになれる、カルト映画に対するもう一方の傑作を目指した作品だろう。

たいてい、映画を見終わると、「ちょっとまてよ」と、なにかしら指摘したくなるのだが。この映画は、そんな気持ちまで星空の彼方に吹っ飛ばしてしまう。

久しぶりに北海道の弟に会いたくなった。でも、トラクターでは行けないなぁ。


2012年1月16日月曜日

カーリングのストーンは20キロ、漬物石には贅沢かな



「杉本家 歳中覚の日々〜京の町家200年のレシピ」の再放送を見た。

道産子のボクには驚くことばかりであるが、なにより感心したのは、地下室を作った目的が「仏壇を火災から守るため」というところだ。

また、暖房が少ないのだろう、みんなとても厚着なのだが、そのセーターや帽子が、いーい手編みなのだ。この中の誰の作品なのだろう。

「寒いけどお掃除しなくっちゃ」と思った。

大きい声じゃ言えないけど、小さい声じゃ聞こえないからね


たまーに思うが、この世界、この宇宙、これってどうなってるのか。その向こうの向こうのそのまた向こうはどうなっているのか。

いつも、もちろん答えは見つからないのだが、考えてしまう。

これは、人の気持ちを考えることと似てる。

しまいには、きっとこうなのかな、あたりで落ち着けてしまう。

この宇宙がたとえどんなだろうと、今こうしているんだからいいかと。
人の気持ちもたとえどんなだろうと、今こうしていられるんだからいいかと。
いいや、そうは思えないのが、宇宙と人との違いだ。

映画「宇宙人ポール」はどんな気持ちなのか分からない他人、ましてやそれは宇宙人。理解できないと思っているが、けれどいつか、互いに気持ちが通い合って行くといういいお話だ。

未知の世界、宇宙からの他人「宇宙人ポール」みたいな奴は実はそこここにいる。それは一見、フェーザー銃で侵略してくるかのように思うけれど、案外付き合ってみるとあたたかい奴なのかもしれない。

そして、もしかしたら、そこに答えが見つかるかも、ね。

ふくら雀は春を待つ、春になったらご機嫌雀

49ersとSaintsの試合をTVで見た。アメリカンフットボールのプレーオフ。真剣さが伝わってくる。最後の最後、49ersのQBスミスからデービスへのロングパス。榴弾砲のような弾道で、コーナーバックを振り切って40メートル先を全力で走るデービスの胸にピタッと着弾した。デザインされたナイスプレーだ。

アメリカンフットボールにはとりあえずレシーバーを走らせてその時の判断でレシーバーを選んでパスをする、アドリブのプレーコールもあるが、やはり、「みごとだ」と思うのはきちんとデザインされたプレーだ。

「落語の型」はデザインされたプレーだ。そしてもう一方はアドリブのくすぐりだ。

なるほど、演者はQB、そしてレシーバーか。

独演会まであと5日。デザインしたように、ナイスプレーのために、稽古だ。




ふくよかな若手落語家が多過ぎるのは、落語家だからふくよかなのか、ふくよかだから落語家なのか


厚木でバスに乗った。後ろの車輪の上あたりに座った。通路を挟んで左横に中学生らしい男子が4人座っていた。少し進んだ先のバス停で止まっていると、「なぁ、スーパーライトダウンっておおくね」、「ああユニクロのやつな、いるな」、「ドンくらいいるかな」、「次(のバス停)まで数えるか」、「ああ、オレ20」、「いや、そんないねえよ、18」と言って数え始める。バスが走り始めた。

「そうそう」と思わず一緒に数えたくなった。いまでもボクはよく意味の無いものを数える。ぼやっと天井を見ているても、板の枚数を数えていたりする。

これは男子の習性なのかな。
女子はしますか。



2012年1月15日日曜日

バスケットをするから背が高くなるのか、背が高いからバスケットをするのか


小田急線で厚木に向かう途中、新百合ヶ丘手前、進行方向右側に一本の樅の木がある。高さ15メートルはあるだろう。住宅の屋根の海にスッとただ一本、天を指していた。
なぜここに、一本だけ樅の木が、それもかなり大きい。

不思議な景色だ。

雪が降って、屋根がみんな白くなったらどんなだろうと思った。



バスタオルを腰に巻く時には、上端を外向きに折り返すと外れにくい


さて、「富久」は一段落したことにして、明日から「お直し」だ。けれど、あと7日で独演会、そのあと2/11の落語会もあり、それらの演目のモノもやらなくてはいけない。
明日は父の三回忌で厚木。その道々、「お直し」をさらってみようか。

今夜はロバートデニーロの映画を見る。

以前、映画「タクシードライバー」にやられたことがある。ロバートデニーロが主演だ。この映画にはいろいろな見方があるが、ボクは「孤独から愛への戦いの記録」だと思っている。

映画館で見たのだが、そのころ、ベトナム帰還兵の孤独が、自分の境遇と重なるところがあって、最後に報われる展開が、まるで自分のことのように嬉しかった。

「今日から大人の仲間入り」、成人式のニュースで必ず聞く言葉だ。そうか、大人という意味で「仲間」なのかもしれない。「仲間」を意識していなくても、近くに居るだけで「仲間」になれるのが大人だとも言える。

「孤独」の特効薬は「仲間」だ。

今日の稽古会、これだけ様々な年齢、職業にもかかわらず、同好の士が好きなことを肴に美味い酒を呑んで笑った。

今、一人になっても、特効薬の効き目は続いている。

さて、それでは、部屋を暗くして映画を見よう。


2012年1月14日土曜日

「千と千尋の神隠し」で「湯女(ゆな)」だよとは大きな声で言うなだよ


今日は千一亭落語研究会の稽古会。いつもの同志が集まって、落語三昧だ。

「富久」をやった。長講だ。話すほうより聞くほうが大変だったろうと思う。実に有難い。季節はずれ、年末の話だ。今稽古しているが、披露するのは今年の暮れ近くになろうか。来週は独演会、本来ならば「柳田格之進、火焔太鼓」をやらねばだが、一月に新ネタ一つということで、「富久」とした。今日は時間も許されたので、「クロアチアのヤギ」という「まくら」もふってみた。これは受けた。

こんな事を言うのもなんだけど、この会で受けるというのは大変なことで、普段はほとんどシーンとしているから、受けたということはお墨付きのようなものだ。

独演会ではこの「まくら」でいこう。


首長族は首の長いのが好きなんだから


落語って、どうしても伝えたいという「魂の叫び」が、無いわけでは無いとは思うが、ことさら有るとは言いいにくい。娯楽としては実に「弱い」。

だからこそ、それを娯楽として充実した時間にできるかは、演者の力量による。

たとえ風景画のような落語でも、美しく演じられるようにならなくっちゃ、ね。



食べたい思いをぐっとこらえてダイエット


古い写真を見つけた。
カヌーに行ったときのモノだ。
祇園祭の後の奈良県吉野川、台風の名残りで川は濁流だった。この写真は誰にとってもらったのか。いまではぼんやりとしてしまった。カヌーは水浸しになる、時としてひっくり返る、だから、普通のカメラは持っていけない。そこで、カヌーから帰った後、まだ少なかった防水の携帯電話を買った。なぜか、それを手放せず、いまでも使っている。

古いものには新しいものに無いものがある。それは思い出だ。どんなにそれが使いにくくても、思い出とともにあるほうが、気の利いた使いやすいものより何倍も心を暖めてくれる。



2012年1月13日金曜日

ささやかなつまずきに喜びを感じる私


自分に今必要なものは何だろう。

羽織を着ると噺家。
白衣を着ると歯科医。
ジャージを着るとラガー。
ウェットスーツを着るとダイバー。

これらはみんな、それぞれの仮装をしての、仮装現実。

あたりまえだけど、真の裸の自分はそこにはいない。
じゃ、ドコにって、仮装しなけりゃ裸、裸と言えばお風呂。
んー、すると、今、真の自分に必要なモノって、やっぱりダイエットか。


洗濯ロープをボーラインノットで結んだ


落語「柳田格之進」の中に「武士のアカキココロ」という言葉が出てくる。ちょっと調べてみた。

『神道の中心的な伝統として、「清き明(あか)き心」(清明心)がある。清く明るい心と書く。くもりなく、すがすがしい心。やましさのない、晴れ渡った心。邪心のない、二心でない、清らかな心。神様の前にそういう心でいよ、という教えである。
この清き明き心は、日本人が美徳とする正直、誠実、思いやり、忠実などの土台となったもの。また、卑怯(ひきょう)なことをしないなど、人間の様々な徳の基礎である。』

その心に触れるこの落語は聞き終わった後、とても有難い思いが湧いてくる。まあ、古今亭志ん朝師匠だから、ね。

自分の落語も、有難いなぁと思ってもらえるといいな。


いつのまにか輪ゴムまでも色々とカラフルに


紙飛行機を作ってみたがこれがなかなか手強い。紙飛行機といっても折り紙のそれではなくて、ケント紙を切り出して、ボンドで張り重ねて作るモノ。出来たら天井に張った糸に吊して乾かす。先端に付けるおもりはクリップで調節する。

揚力の仕組みを実感できる工作だ。

飛ばすときは手で飛ばすのだが、ゴムを引っかける所を切り欠いておいてゴムで飛ばすのもいい。

うまく出来るとスーット飛んでは突然フワっと舞い上がる。その瞬間、体がちょっと軽くなる感じがする。

映画「レッドバロン」を観た。複葉機の空中戦だ。機体を真っ赤に塗って大暴れ、「ガンダムのシャアはこれか」と思った。その飛行機達の飛び方が、まさに紙飛行機の飛び方だ。

紙飛行機はたいてい最後は墜落する。傷んだ翼を見ては直してまた飛ばせてやろうと思うが、そんな飛行機への気持ちが、馬の背を叩くように、主人公が機体を叩く仕草に出ていた。


2012年1月12日木曜日

来し方行く末


「バンジージャンプでロープ切れ、ワニの居る川へ転落」、バンジージャンプはいまだ未体験。

ただ、落ちた経験はある。もうずいぶん前になるが、パラグライダーをしていた頃、場所は「白馬」、眼下に放牧されているの牛が消しゴムくらいの大きさに見える高さで飛んでいた。

山の斜面に近づいたときだった、強い上昇気流に煽られて、キャノピーと呼ばれるパラシュートの部分がメクレあがって二つ折になってしまった。

本来はそうなる前に、ブレイクコードをバンバンバンと叩くように引いて、戻すのだが、そのときはまだかけだしで、何もできなかった。機体は旋回し始め、竹とんぼのように、加速しながら落ちていった。正直、ああ、終わりかな、と思った。

よく、そんな時は走馬灯のように今までのことが頭に浮かぶというが、別に何にも浮かばなかった。いわゆる「真っ白」だ。ただただ、近づいてくる地面を見つめていた。でも、その地面を見て、「これきっと助かっちゃうな」と思ったりしていた。

それは、幸いにも、上昇気流が強く発生するくらいの斜面、だからその斜面は、激しく急角度だった。落ちるというより、擦り寄って行って、滑る感じで斜面に触れ、ズルズル落ちて、最後には転がって止まった。

さらには、前日までの雨で湿った泥にも助けられた。

体も機体も泥だらけになったが、このニュースの動画で女の子の肩の傷程度ですんだ。

気を取り直して、その後も何も無かったかのように、日没まで飛びまくった。



すぐにひっくり返って危ない3本脚のイスが3本脚の理由

診療室と千一亭にWIFIのアダプターを取り付けた。ところが、これは携帯通話の電波改善には無力だった。まぁ、メールが良くなったんだからいいか。とりあえず、電波悪いからってメールできるわけだから。

「これでマックと同じです」って言われたけど、それって喜んでいいところなのかなぁ。


台所洗剤は4倍希釈で


火焔太鼓にまた一工夫。

売って帰るときに、これはなんという太鼓ですかと亭主が聞くと「火焔太鼓」だと教わるが、そのとき、「あー、なるほど、そうゆうことですか」と言って帰るようにする。

帰った後、カミさんに、「ありゃぁカエンダイコとかいうんだぃ、あたりまえじゃ『買えねえ太鼓 』 てナメエだよ、なるほど高く売れるわけでぇ」と、ね。

漢字で教わっていないわけだからね。

それと、以前、そこんとこで、
「えーーーっと、なんだっけなぁ、あー、忘れちゃったが、すごいたいこなんだよ」とやったら、
誰かに、「忘れても、ああやって誤魔化せばいいんだね」と言われたことがあって、

「いや、ちがうから」とも言えず。

あいかわらずチッチャイので、ちょっと気になってたところだったから、まあ、このほうがいいかも、ね。


鼻でフン忠臣蔵


『 「かわいい女の子に囲まれて、あなた浮き足立ってたわよ」 誤り×


(正しい意味) 不安や恐怖にかられて逃げ腰になり、落ち着かないこと。
(誤った意味) 嬉しくて落ち着かなくなること。


「浮き足」はつま先だけが地についた状態、いまにも逃げ出しそうな落ち着かない状態をさすので、「浮き足立つ」は逃げ腰になった姿をいいます。嬉しくてウキウキした状態は「浮き立つ」が適切です。 』


とあったが、これは誤りだ。


男はかわいい女の子に囲まれたら、浮き足立つモノなのだ。筆者は女性だと思う、男の気持ちは複雑なのだ。
そもそも「かわいい女の子に囲まれて、浮き立つ」てしまうような男が、かわいい女の子に囲まれるだろうか。


「かわいい女の子が囲む」時、男は、そこに「男にない攻撃性」をワラワラと感じる。
だから、「浮き足立つ」がおよそ正しい。


この文章をあえて添削するなら、
「かわいい女の子に囲まれて、あなた浮き足立ってたわよ、ニヤニヤしちゃって」誤り× かな。
いやそれでも、男はやっぱり逃げ出したいと思っているはずだ。
ニヤニヤは「逃げる笑い」だ。



夢は忘れても夢を見たことは憶えている


月明かりはかなり明るい。明かりを消して見るガラス越しの満月、いや今日は月齢18日、ちょっと陰っているがクリーム色の月だ。

今夜はことさら寒い。冷たそうな風の音が聞こえる。
青白い月明かり、空にはクリーム色の月。

いつでも空にある月なのに、こうやって見ようと思うことは少ない。いつもなにかやらなきゃと。月を見ていると、そんな、慌てなくてもいい自分の慌てぶりに気が付く。

それなのに、次の瞬間には、「カーテンを閉めないと風邪を引くかな」と、すぐにそんな慌て虫が動き出す。

いやいや、たまにはじっと月を見てみよう。

すると、月は動物の目のように、見つめるこの目をじっと見つめ返してくる。
「それでいいのか」と言うかのように。

でも、そこでいつも考えることを止めてしまう。
答えは出さない。
そして、何かを見つけて笑いだす。

逃げるための笑い。
考えると、ボクの笑いのかなりの部分はそんな笑いだ。

けれどそうやって逃げ続けてきたから、今、
なんとかこうやって月を見ていられるのだろう。

月明かりは辺りを白く照らす。漂白するように白く照らす。
何かを答えなくても、月明かりはそれらを白く飛ばしてくれるようだ。

ああ、だんだん眠くなってきた。

明日の朝には白い自分に戻っていたいな。


2012年1月11日水曜日

雪道運転で曲がるときは一旦反対に軽くハンドルを切ってから曲がってた


え゛ーっ、「東京事変が解散を発表」って。ドラムを始めたとき「これだ」と思ったのが、東京事変の「キラーチューン」 だった。紅白歌合戦も椎名林檎だけはちゃんと見た。ドラムの刄田綴色(はた としき)さんは左手でハイハットを叩くオープンスタイル。ドラムを始めたとき遠藤剛先生に尋ねたところ、最初は普通でいこうと。やはり、右手ハイハットと右足バスドラの方が初心者には「いい」と思った。

紅白歌合戦では「ブラシ」で叩いていた。ちょうど、クリスマスの曲 Chris Rea 'Driving Home For Christmas' をブラシでレッスンしていたので、なんとも偶然と喜んだ。

これから刄田さんはどうするのかな?
なんといっても、先生が言うようにドラムは伴奏楽器だからなあ。


扇子は右開き


ご存知「水曜どうでしょう」。あの大泉洋を生んだ北海道のローカル番組だ。いまさら何を言うかであるが。久しぶりにテーマソングのドラムを叩いていて思った。

テーマは「仲間」だ。「信頼」と言ってもいい。

ボクがいろいろやってることは、実は「どうでしょう」で旅に出るのと同じじゃないか。

ふと、北海道に生まれてよかったなとちょっと思ったが、北海道はほんと寒いですから。

ボクも、「新しいこの朝がいつものように始まる」ように一生どうでしょうするんだろうな。

おっと、今日は水曜日じゃないか。



「風にそよぐ草」の顔だけ出してお風呂に沈む入り方はいつものボクの入り方


あたりまえのことだが、ふと思った。
犬や猫らが大切にされるのはなぜか。

それは、しあわせは感染するからだ。

しあわせになるようにと、しあわせにすると、そこに生じたしあわせは感染して、あたりをしあわせにする。

その感染力はすごい。あっというまにあたりは笑顔になる。

子供も同じだ。

ましてや、子犬や子猫となると、あっというまに、あたりは全滅だ。

それはたとえ大人でも同じだろう。

自分で言うのもなんだが、ボクの感染力もかなりなモノだと思う訳なのだが。


ニュースでキャスターの後ろで役所からお帰りの眼鏡小太りのおとうさん、鞄の肩紐が垂れて地面を引きずってますよ


 「とんでもない話なんですよ、ありえないですよ」という話だから面白い。
ことさら、ニュースではそこが求められている。
そして、その背景が解ると、さらに面白くなる。
ニュースキャスターと解説者の出番だ。

それはエンターテインメントでも同じ。
映画解説者の話には、「なるほど」と感心することが多い。
そして、映画はさらに面白くなる。

落語だって同じこと。落語解説者が居ていい。それもテレビのように格調高い解説ではなくていい。もっと落語的で、しかし、あくまでアカデミックな解説。

千一亭での寄席は、街の寄席のマネから一歩進んで、解説者がその話の解説をするなんてのはどうかな。あくまで、話の内容の立体的な理解のための楽しい解説で、演者の評価にならないほうがいい、解説自体「芸」として成立するモノじゃないとだけれど。


2012年1月10日火曜日

寒くて寒くてしょうがないと しょうが探してホッカホカ


歌舞伎の演技は「歌舞伎の型」として代々受け継がれたものである。
これが 落語の礎になっていることはよく知られている。
古い名人達の落語には明らかに「落語の型」と呼んでいい所が散見される。いや、それ自身が「落語の型」だ。

現代演劇はスタニスラフスキーが始めた演技論からなっている。
これは「型」を否定し、人格そのものの再現を目指す。

現代の落語はどうだろう。
明らかに現代演劇に牽引されているかのように思えるが、そこに、最も重要な登場人物の人格は再現されているだろうか。

「落語の型」もない。登場人物の人格もぼやけている。そんなだから今、つまらない落語が多いのだろう。

と言ってるボクこそ、そのもので、「型」はやっと教わり始め、さまざまな人格には手を焼いている。

今年は稽古を始めた2009年から4年目に入る。
なのにまだまだ入り口に立っている。


ティーバックのほうじ茶は一人で飲むには出過ぎです


ダイエットしよう。と、思うのだが。

コンビニで「太らない食べ方」というムックを買った。何かしようと思うときまず本を買う。

ざっと目を通すと、意外と何でも食べられるようで安心した。いや、安心してはいけない、いけない。

「50分運動するよりゴハンを半分にする方が簡単だ」とあった。

簡単かも知れないが、気持ちの事はどうなるのだろう。

ゴハンを普通に食べて50分運動する方が気持ちいいと思うのだが。

気持ちよく締まった体になるには食べ物をどう選んだらいいのか、とは書かれていない。
だれか書いてくれませんか、すぐ買いますから。


アキレス腱をホッカイロで暖めると体中がホッカホカ

今日のニュースでは、「染色体末端「テロメア」が長いほど長寿」だそうだ。

と言われてもね。
nightmare は 悪夢だから、「テロメア」は「テロの夢」か。
すると、「染色体はテロの夢を見る」ということか。

それが寿命と関わるとなると、映画「ブレードランナー」の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を思い出す。

染色体のテロが死だとしたら、染色体のテロは何に対するテロなのか。

それは永遠に対するテロに他ならない。
寿命は神様がお決めになっているとしたら、人は神様ではないのだから、永遠の寿命を与えられることはないのだろう。

落語を憶えるのを、ただ、だらだら憶えようとしても、なかなか進まないが、来週の土曜までとか、「期間限定」で稽古すると、けっこうやれるものだ。

人も「期間限定」の方が、より幸福を実感するに違いない。
それは、不幸を知ってこそ幸福を知るものだから。
水中に潜ってみて空気の有難さを知るように。

染色体が見るだろうテロの夢とはどんな夢だろう。

「永遠という時間を壊す夢」だとしたら、それは例えば、「試合時間いっぱいまで全力で走って燃え尽きる夢」のようなものだろうか。




2012年1月9日月曜日

ラグビー仲間の中村光彦先生が松尾雄治さんにどんどん似てくることにビックリ


Peeping Life 「合コンでダダかぶり」。時々見たくなってしまう傑作だ。

特にラストにかけての「後輩ちゃん」の畳み掛けは見事だ。「内臓系」をはじめ、散りばめられている言葉もすばらしい。一瞬一瞬の二人の集中力が見ている者をどんどんどんどん脱力させていく。

「でも、あの茶色のワンピースを二人して選ぶか」、と思わせるところもネライなんだろう。男として、これは禁断の場所での禁断の会話。見ることのない、見たくない、見てはいけないものだ。

見てはいけないものだけに、時々見たくなってしまう。傑作だ。

中近東の東は東洋、近は近い、じゃ中は何?


イヤホンというかヘッドフォンというか、ボケットから取り出すとからまっていて、スパゲッティ状態なことがよくある。

なんとかならないかな。束ねたり、巻き取ったりというものは見かけるけど、どうも面倒な気がして使っていない。

ところが、さっき気がついた。このコードの両端をもって、ぐちゃぐちゃにぐちゃぐちゃにしてみたが、両端を離さなければ、すぐにスラッと解ける。

そうだ、機械の方に両面テープかなにかで、クリップを付けてそれに挟んでおけばいいってことじゃないか。

もしかして、これってもう売ってたりするのかな。
まだならぜひ、だれかこれ見て作ってほしいな。


鶴の千五百番


子供のころ、いや、かなり大きくなってからも、よく空想しては楽しんだモチーフのひとつが「潜水艦」だ。それも大勢で乗り組むものではなく、何人かしか乗れない「潜水艇」だ。腹ばいで操縦する。それに乗って静かな海の中を巡る。未知の世界がいろいろと現れる。ひょっこりと友達の家の前の海辺に現れたりする。

「サブマリン707」という潜水艦のマンガを良く読んだ。知恵を絞った作者の空想に胸躍らされた。「ボトムボンズ」という名の水中浮遊機雷、もちろん実際には無いのだろうが、その機能、構造、形、そして名前まで、うっとりするほど良く出来ていた。命がけの戦いの話なのに、ただただワクワクと楽しい。

大学に入ってから、スキューバダイビングのライセンスをとって、モルジブ、セブ、ケアンズ、マウイとあちこち潜った。ボンベを背負って、空を飛ぶように潜った。

けれど、空想の潜水艦のように伸びやかで気持ちのいいものではなかった。ダイビングはもちろんワクワクと楽しいのだが、常に命の危険と隣り合わせだという冷たい感覚がいつもお腹のあたりを軽く押してくる。

現実とは「苦楽」が常にワンセット。落語が楽しいのも、空想ゆえに「苦」がないからか。いや、お客さんに話す前に、演者がすっかり「苦」を味わい尽くしちゃってるからかもしれない。そう、煮物の「あく」をとるように、すっかり「苦」をとりつくして磨きあげた話こそ、お客さんにとって「楽」だけの「いい話」になるのだろう。


2012年1月8日日曜日

千駄ヶ谷落語会のチラシできました


ぬけるような青空


ラグビー大学選手権決勝ハーフタイム。山本先生回復祈願。昨年7月菅平、目の前の勇猛な突進で大怪我をし、いまだ病床にある。また一緒に走りたい。11番、14番の背番号に自分を重ねてしまう。「そこだそこだ」、「走れ」。どちらもナイスプレー、全力で走る、気持ちいいだろう。怪我に苦しむ仲間にどうしたらいいのか、いまになってもそんなことじゃと思うのだが。



ほうとうって、ほうとうに太いね


どうも人の祖先はサルではなくて、アマノジャクのようだ。自分を見ているとよく解る。「おもしろいんだよ」と言われると、「そうでもないな」と。「つまらないね」と言われると、「そうでもないな」と。

で、ほんとうにどうでもいい些細な事を、笑うことも忘れて真剣に夢中にやっている人を見ると、ほのぼのと可笑しくなる。

んーん、これって落語。(ウゴウゴルーガのサナダ先生)

2012年1月7日土曜日

正月飾りをていねいにはずした


千駄ヶ谷落語会(千一亭落語研究会披露)の出演者と演目が決まった。さっそくチラシ作成に取り掛かる。

落語をするのも楽しいのだが、このデザインも実に楽しい。いままで、折った形を意識してのデザインを追っかけていたが、今回は、一枚勝負でやってみよう。

11人の出演者、充実の寄席だ。みんなの期待に応えられるチラシにしたい。

ボクは「宮戸川」を掛けようと思う。お客様はおよそ何方かの応援の方々、大人と踏んでここはしとつ、大人の話をしてみよう。


お茶は音を立てて飲んでいいのかな、そのほうが美味しいけど


[ 雪国の美しい景色のコーナー ]

勝手に始めました新コーナー。ここでは、まったく有名でなく、およそ紹介されることのない、雪国北海道の美しい景色を紹介します。

今回は「夕張の夕焼け」。ボクが小学校4年生のときは夕張本町という町の小学校で、家までは子供の足で20分程、かなり急な長い坂道を登って帰る。

その坂道の中ほどの道端にダンボールがゴロッと転がっていた。それは大きなタバコのダンボール。小学生の自分と同じくらいの大きさ。まだ道はアスファルトではなかったのか、辺りは雪で真っ白だった。引きずったのか、押していったのか、そのダンボールを坂の上の交番に届けた。

その坂の上で、遠くのボタ山の向こうまで広がる夕焼けを見た。空も雲も山も燃え上がるような夕焼け。子供ながらに、体全部が真っ赤に染まっるような感覚に、じっとしてしまった。


こんなところに出し忘れた年賀状って、もう7日ぁ


千一亭のお飾り。じつにおめでたい。全て皆様からのお心づくしのお品。じつに有り難いです。


シャケ単品って、定食だよ、シャケ単品でたのむなんて熊ぐらいしかいないよ

さっきテレビをチラ見していたら、日本語の先生が話していた。
初対面の人に「私って○○ですよね」とか「○○したいですか」と言うのは日本人としてはどうよ、という説明だ。簡単には前者は「疑問形」で反応を強要し、自分に合わせることを求めていること、後者は相手の気持ちに踏み込んでいることが、どうよという訳。「日本人は相手の気持ちは神聖なモノ、そこに踏み込むのは失礼」、なるほど。

そうか、語尾上げも同じだ。

「落語聞きたいですか」じゃなくって「落語聞きますか」なんだ。おっと、これはその前に聞きたいような落語があっての話。尋ねること自体が失礼じゃぁしょうがない。それこそ「ボクって失礼ですよね」になっちゃう訳で。よぉしぃっ、稽古、稽古。


「タイムマシンにお願い」と歌っていたのはサディスティックミカバンド


「懐かしいあの人に人ごみの中で逢った」と、荒井由美が歌う。「降り出した雨に追いかけられて急いで行くのよ」、そしてバスのクラクションが響く、「振り返る大通り、あの人に見えるように、混んだバスの曇った窓に書く、大きくグッドラックアンドグッバイ

砂時計の砂はただ落ちて行くだけ。時は砂粒の一粒一粒のように、落ちては確実に積み上がって山となる。もう、たくさんの砂粒が山となって積み上がっている。そしてもう、その山を動かすことはできない。

砂時計をひっくり返せたら、どんなに素晴らしいだろう。だけど、こいつは一回限りの砂時計。

秒針見ながらお茶を飲んでいると、時間てのは、意外とゆったりしていることに気がつく。時間はけっこうたっぷりとあるんだなぁと、お茶のいい香りとで、ホッとする。

砂時計も落ちる一粒一粒に触れれば、ホッと笑みがこぼれる。

まだ見ぬ砂粒たちより、落ちてしまった砂粒たちより、今この手に触れている砂粒こそ、笑みがこぼれるその一粒一粒が幸福という砂粒。




2012年1月6日金曜日

出汁をとった甘辛いアラを熱いご飯でいただく

電気保温ポットの中が白い結晶で覆われて、「ポット洗浄中」でもなかなか落ちず、ベッピンさんでゴシゴシしていたころ、毎回沸かしたほうがいいと、ティファールを使い始めた。なるほど、うたい文句の通りすぐに沸く、けれど、そのさめ方の早いこと。毎回パチンパチンとやるよりは、ポットからすぐに出るほうがいいと、ピカピカになったポットがまた復帰して、ティファールは棚の隅でネンネ。

そして今日、ティファールは新たな舞台を見つけたのでした。それはお燗です。すぐ横にあって、パチンで熱燗、とっくりが一本ちょうど収まるおおきさ。

これからまたよろしくね、ティファール君。

生毛か前髪か


ボクは北海道生まれ、雪国育ち。そりゃあ寒さは慣れっこでしょ。と思われがちだけど、寒いと動けなくなっちゃう、冬眠しちゃう勢い。愛用のオイルヒーター、ディンプレックスにピタッとくっついてじっとしてしまう。こいつは白い大きな一枚パネルで、椅子に座って、横にぴったり置くとあったかい。両側にあったら完璧なのになと思う。しかも暖気が上がってくる上の部分が肘掛けにもなって、さらに暖かい。

しかし、この部屋、湿度28%、カラカラだ。雪国は雪のお湿りで、寒さの感じ方が違うのだろう。気温は低くても心地よい寒さなのかもしれない。

「雨の中を走った方が歩くより濡れないと言うのはホントだろうか。」 こんな実験をアメリカのテレビ番組で検証したそうだ。
歩く方が濡れるだろうなと思っていたが、結果はなんと、走った方が歩くよりもかなり濡れた。走ると体全面も雨を受けるからだそうだ。

だからといって、歩いた方がいいのか、いや、そうは思わない。雨の嫌な感じは、雨の量よりも、雨の心地悪さの程度にあるはず。やはり走って、その時間が短い方が雨に対しては良いと思う。また、「春雨じゃ」のように心地いい雨具合もある。

寒さもその気温よりも,心地だろう。
あえて南極の景色をディスプレーいっぱいにうつして、寒い心地を味わってみるか。おっと、もちろん熱燗と一緒にね。

どこまで伸びるのラベニヤシ


古くはハンフリーボガード、フランクシナトラ、そして今、ジョージクルーニー、それに続くブラッドピット、マットデイモンといったハリウッドの「アニキ達」。「いくぜ」とガンガン引っ張って行く勢い。タメライはない。

ラグビーの魅力は「アニキ」になることだ。やくざ映画を見た後は肩で風切って歩いてしまうように、ラグビーの後はアニキになる。

落語のなかにも、「厩火事」とかに「アニイ」がでてくるが、こちらは「オトコギ」というより、お間抜け過ぎて「オドロキ」といった感じ。

どちらも魅力的ではあるが、全く正反対。ところが、どにらにも共通することがある。それは「タメライがない」ことだ。

ためらわないコトこそが魅力の要素か。ん、よしっ。

ブーケレタスとロースハムとマコーミックのフレンチドレッシング


後楽園遊園地だったろうか、直径10メートルはある大きな円筒形の部屋の壁際に立って、その部屋がグルグル回り始めて、すると、やおら、床が下がっていく、けれど、自分は落ちないで、壁に張り付いたままというアトラクションがあった。
遠心力ってすごい、と思った。

地球は丸い。そして回っている。ボクらにはみんな遠心力がかかっている。しかも地球の直径は赤道でおよそ12700000メートルだ。

けれど、北極や南極ではあたりまえだが、直径は0メートル。

ん、これって体はどうなるの?


湯タポンのせてラッコ気分



大学二年の春、ボート部だったボクは冬のウエイトトレーニングだけの部活にちょっと厭きていた。そんなときにオリエンテーリングを知った。地図とコンパスを持って野山を駆けまわる。陸上よりチャライかなと思ってはじめて見ると、これが実にエキサイティングだった。オリエンテーリングの起源は軍隊の斥候訓練だそうだから、銃を使わないサバイバルゲームの様なモノだ。実際、北海道での試合の上位にはいつも陸上自衛隊のモサ達が名を連ねる。

その年には、解剖学の矢嶋教授に顧問をお願いして、「オリエンテーリング同好会」を立ち上げた。今でも続いててるのは何より。まぁ、それだけ、特に北海道では楽しいスポーツなのだ。

お隣の鳩森神社に初詣した折、一番小さなダルマを買った。説明には北東に置くようにとある。

そこで、懐かしいコンパスが活躍したのでした。


2012年1月5日木曜日

秒針見ながらお茶を飲む

お天道様といえば、ロシア映画の「太陽」を見た。
昭和天皇を描いた日本人とアメリカ人だけが出てくるロシアで撮影されたロシア映画だ。

終わって、いろいろと思いを巡らしたが、なんといっても、残った空気感が心地よかった。

映画は登場人物やストーリーが主役だと思っていたが、
雰囲気を味わったり、その世界に浸ったりというものが、ボクにとってはこの映画の主役だった。

椅子に浅く腰かけて、カップソーサーを持ち上げて、美味しい紅茶を飲みたくなった。

ふみゅ

お腹がいっぱいになると、眠くなった。今日は雲一つない空、窓越しの暖かさは木枯らしとは無縁の別世界だ。

ちょうどお腹あたりに陽が当たるように横になる。お天道様は気持ちいい。思わず笑みがこぼれる。ところが、ぼーっとしていると、じっとしていないお天道様は、すっかりいい気持ちになってる顔を、いいかげんに起きろとばかりに照らし出した。「はいはい」と起きた。

ふと、お天道様の光を落語の言葉に置き換えてみた。そう、落語では目の前を過ぎていく言葉が心地よくても、時として、言葉の塊が自分に向かってくるような時には、「ん」と思って気持ちが離れる事がある。  

落語はお客さんと一体になって作り上げるモノだが、それが為にと言葉をぶっつけちゃいけないのは、落語の言葉はお天道様の光のようなモノだからな訳か。

ホワイトマシュマロと歌舞伎揚げ


今日は仕事始め。でも、午後の仕事前の2時間、ドラムのレッスン。2008年の1月から始めたドラムも今年で5年目。今回は「踊りだしたくなるように叩こう」をテーマに、早い16ビートとオープンハイハットのコンビネーションだった。先生も初叩きということで、熱が入った。お昼は蕎麦を作って一緒に食べた。頂き物の乾麺、細くていーい麺である。日高昆布とかつお、さば、いわしで出汁をとって、酒みりん醤油砂糖で、ちょっと甘めにこしらえて、適当なものがなかったので、ホウレン草、チャーシュー、舞茸、それと豆餅を二つのせた。ガッツリとしたお蕎麦。先生にはお口にあったと見えて、お礼にと、5分超えのドラムソロを披露していただいた。初めての事で、感激だった。体が揺れた。踊りだしたくなっていた。

ダンス音楽はリズムキープが命だ。たとえ途切れるところがあっても、リズムは続いて、またちゃんと戻るのがいい演奏だ。

とん馬師匠の教えには、「落語のリズムとは、声の調子や大きさや間とかじゃない、落語のリズムは人物の表出だ」という。

つまり、リズム譜に置き換えると、一つ一つの音符が一つ一つの人物という事だ。旦那と番頭の会話なら、「旦那、番頭、旦那、番頭」と音符が並ぶ。しかもそこには修飾符が付いていて、「困る旦那、疑う番頭、諌める旦那、恐縮する番頭」といった具合だ。このそれぞれがハッキリ感じ取れると、落語のリズムが生まれる。ドラムなら、ちゃんとシングルストロークが打てないと、聞いてられないだだの雑音になるのととてもよく似ている。

よく、落語で、「ウケているんだからイイ」と客の反応で落語家を評価するような言葉を聞くが、なんとも、反論する意欲も失せる。

先ほどのドラムの話で言えば、「踊っているんだからイイドラムだ」ということになる。おかしなことは明らかだ。

聞くほうの反応の理由は、それこそ様々なものがあるはずだ。

「踊りだしたくなるように叩こう」、これを落語に当てはめれば、「笑い出したくなるように話そう」となるだろう。

そのように実際話せているかどうがが、落語家の評価であり、それは、たとえ、その結果として、お客さんが笑ったとしても、それが基準ではない。評価の基準は、当たり前の話だが、落語家自身の芸そのものに置くものだろう。

リズムが破綻している落語はもはや雑音に過ぎない。
リズムキープこそが正に落語の命だから。



2012年1月3日火曜日

一日レモン一個


 高校では陸上部だった。中長距離だ。目標はインターハイ、1500、5000。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言うわけではなく実力が及ばなかったのだが、なんの結果も残らなかった。解りやすく言えば短距離のスパイクを履いて、100メートル12秒。もしかするともの凄い追い風だったかもしれない。ただ、結果は残らなかったが、体は残った。実によく走った。毎日毎日、日誌をつけていた。食べて出して走って眠っての記録だ。体重は48キロだった。

 第88回箱根駅伝往路5区、名前が同じということで明治大学・大江啓貴さんを応援した。早稲田大学・山本修平さんとの戦いを見ていると、陸上部の頃の、ただただそれだけだった頃の、今から思えば、あの空っぽの心持ちが蘇ってきた。そして、なんといっても、東洋大学・柏原竜二さんの見事な走りには、ランナー経験者ならずとも、誰しもきっと血が騒いだことだろう。

 柏原さんは甘いモノが好きで、我慢できなくなるとチョコレートをヒトカケかじるそうだ。でも、「その分必ず練習量を増やすんです」と後輩君のインタビューがあった。ボクはクリームあんみつだった。グラウンドからの帰りに、寄って下さいとばかりにその店はあって、しかも古っぽちい店だったので、お客はいつもほとんど居なくて、ジャージ姿でも遠慮無く入れた。ヘトヘトになったときのクリームあんみつは、正に禁断の味だった。

 一瞬、おいおい同じじゃないかと思ったが、チョコレートヒトカケと、天こ盛りのバニラアイスに濃厚な黒蜜がたっぷりかかったクリームあんみつとでは、その違いは大きい。そしてその流れがこのデンプン質の体を作り上げたのかも知れない。だから、お風呂に入るとすぐに溶けそうになる、「湯あたり上手」になっちゃった訳だ。

2012年1月2日月曜日

ドンドン

初夢はエアコンの取り付け工事の夢だった。出入りの電気屋さんと現場監督さんが父の家の2台のエアコン工事をしている。

一台目は居間のエアコン、窓にはめ込む形のモノで、監督さんがこれでいいかとボクに聞く、見ると、その部屋は7、8階はあるだろう高さの角部屋で、窓外には新宿御苑のような緑の森が広がっているのだが、その景色を窓に張り出したエアコンが邪魔をしている。 

おやおやと思いつつ、二台目を見ると、それはキッチンに壁付けで、普通に非常階段に室外機を取り付けたモノだ。「ここに室外機を置けるんなら、居間のモノもそうしてよ」と言うと、監督さんは「でもね、今ドンドンが高くってね、居間からココまで引くと大変なんですよ」と言う。 

「ん、ドンドンって何」、「あぁ、冷媒管の事ですよ」、「うーん、銅だからか、どのくらい高くなったの」、「まぁ、倍くらいですかね」といったところで目が覚めた。  

「ドンドン」が冷媒管の現場用語だったかな、いや、聞いたことないけど、忘れただけかな、などと思いつつ、ネットや手持ちの建築現場用語辞典でしらべてもそんな言葉はない。どうやら夢の中だけの現場用語らしい。

でも、冷媒管はドンドン延ばして敷設するモノだから、良く出来ているなぁと、感心して、笑っちゃった。  

夢で笑えるなんてなかなか無いよね。  

アランは「幸福論」で「幸福だから笑うワケではない、笑うから幸福なのだ」と言っているけど、そう考えると、今年の初夢は福が授かる夢だったね。



初夢

昔は一日の始まりを日の出としていた。日の出から一日としていた。新年も午前0時ではなかった。もちろんカウントダウンもない。新年は日の出とともにやってきた。初日の出、「あけまして」「一陽来福、新玉の春」である。そして、今夜、一年で最初の夢を見る夜を迎える。さて、どんな夢かな。

 夢に現れる自分は何時の自分なのだろう。今でないことは確かだから、過去か未来かのいずれかということになる。だが、夢も思考の一つだとすると、未来の自分がそこに現れるはずはなく、過去の自分を夢見ているということになる。

 時に亡き父の夢を見る。そこでの自分は父在りしころの自分なのだろうが、実に朗らかである。脳天気な性格のおかげかもしれないが、悲しい気持ちは夢の中ではおよそない。けれど、過去の自分がそのようなわけはなく、すると、夢の中の自分は過去の自分ですらない。

 夢は別世界なのか、いいや、夢の世界は別世界ではないはず、夢を見ているのはここにいる自分なのだ。ここにいる自分の、その世界の延長に夢があるのか。すると、そこにいる自分は自分自身の延長としての自分。なるほど、だから、悲しみに囚われていないのか。

 初夢でその年を占う。
ボクはどんな夢を見ようと、それは素敵な一年の幕開けを意味していると思う。なぜなら、夢を見るとは囚われていない、解き放たれた世界があることの証だから。

 夢の自分にどこまで近づけるか、もしかすると、それが常に目標なのかもしれない。

 さてさて、どんな夢を見るのかなぁ。その夢のお話はまた明日、では、おやすみなさい。





2012年1月1日日曜日

一陽来福新玉の春

元旦。今年の稽古は「富久」で始めた。
浮いたり沈んだり、運命の荒波に揉まれながらも元気に明るく生きて行く幇間の久蔵。
ボクも久蔵のように、今年も明るく進んで行くぞ。
けれど、
火事になって宝くじが当たるより、宝くじに当たることもなく穏やかに過ぎて行けばいいな。

師匠から高座は板張りがいいとのご指摘をいただいたので、さっそく畳みを下ろした。
二枚の畳でも、小さなお座敷が出来る。そこに座って日本酒を呑んだ。畳を撫でると、懐かしい感触が広がる。ミカンを食べた。ちょっとだけ正月だなぁと思った。

どうやら酔ったらしい。ゴロっと畳みに横になって、天井を見上げる。すると、楽しいことを思い出せばいいのに、なぜか悲しいことを思い出す。悲しいことのほうが楽しいことより多いからなのか。また起き上がって酒を呑む。すると、少しあたたかい気持ちを思い出した。

そうか、なるほど、悲しい出来事は思い出になる時に、あたたかい気持ちで包むんだ、いや、あたたかい気持ちで包むから、もうそのことで傷つかない思い出になっている訳だ。

楽しい出来事は無理をして、そんな気持ちで包む必要がないから、何か思い出そうと、思い出の「包み」を探し出して、その包みを開ければそれは、中身はきまって悲しい出来事という訳だ。

また一つ年を重ねた。だから、また少し涙もろくなったと思う。それは去年もそんなふうに包んできたからだ。今年もきっと包まなければならないだろう。でも、そのときには、できるかぎり、明るく、綺麗に、優しく包みたい。