落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2022年6月28日火曜日

第129回志ん諒の会チラシ


 

第128回 志ん諒の会

 

 私は以前より、自分の腕を上げるには自分より達者な人から学び取ることだと思っていました。

 しかしながら、今回、見回より一回り多い四回りも歳の違う人を相手にし、一緒に時間を過ごしたところ、すぐにも、明らかに自分の芸に変化が見られたのです。


 どうやら、のびのび、ハツラツとしたその芸と佇まいに反応したようです。私は「船徳」を掛けたのですが、徳三郎を、私の思う突っ転ばしの若旦那として無理なくできたのは初めてのことです。


 よく、「人は自分自身では自分のことは分からない。相手を鏡にして自分のことが理解できる」と言いますが、今回はその言葉に確かな手応えを感じました。

 それは、今まで、こうすればああすればと、技法ばかり意識していた自分だったことに気付いたことです。

 楽太さんの生き生きとしたのびやかさこそ、落語を楽しむためには必須なものです。チマチマとキレイに小さくまとめようとしていた自分に気付かされました。


 落語は、上手いだけでは落語ではないのかもしれません。例えにならないかもしれませんが、タンパク質をキチンと揃えても生き物にはならないようなものです。きっと、落語も生命エネルギーが加わってはじめて落語になるのでしょう。


 閉塞的な世相に個人個人が孤立する中、落語の持つ社会的な意義は大きくなっています。それは落語の世界観が、社会が失いつつある人と人との温かな関係性を呼ぶからです。これは関係性を断ち切って孤立化を図る昨今の日本社会の方向性とは相反するものです。人間関係の喪失は生き物として本来あるべき生命力の喪失に繋がります。


 「落語で笑った。落語で元気になった」と言う感想は、人と人との温かな関係性にホッとする気持ちを感じたからに違いありません。


 溢れるばかりの娯楽に囲まれていても、ホッとするような気持ちを感じさせてくれるものは僅かです。多くは、暴力、復讐、妬み、欲望、勧善懲悪など、心を締め付けてくるような緊張感を与える娯楽です。その中で、落語は緩まった世界で、温かな浮遊感を与える全く異なる娯楽です。


 どんなに言い合っても、争っても、心の底では、相手に絶望することなく、相手とどこかで繋がっていると思える人達。どんなことでも拒絶することなく、許容して、自らの懐に入れてしまうおおらかな人達。そんな人達が皆持っているものは、希望に違いありません。そして、希望を作り出す力のほとんどは生命力でしょう。ですから、落語の中の人達を生き生きと聴く人の前に立ち上がらせるような落語には、なにより生命力が鍵だったんです。


 見渡せば、最も生命力があるのは赤ん坊です。しかし、歳を重ねるたびに理解力がその生命力を抑え頑なにしていきます。おそらく、犬が幾つになっても仔犬のようにハツラツとしているのは理解力が生命力の邪魔になっていないからだと思います。


 私は今回、楽太さんと落語会を共にしたことで、少なからず自分を抑え込んでいたものを緩め素直になることが出来たように感じています。

 落語が聴く人に感動を伝えるものならば、伝えるのは技術であり、感動させるのは心でしょう。

 それは、見方を変えると、伝えるのは理解力であり、感動させるのは生命力とも言えます。


 老犬を二匹看取った経験からも、二匹とも最後まで生命力の塊だったことからも、生命力に衰えは無いと思います。

 ですからきっと、私にも楽太さんと同じ生命力があるはずです。ならば、それを呼び活かすためには楽太さんから多くを学ばなければならないと感じています。