落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2010年1月28日木曜日

稽古会 2010.1.28

稽古会でした。
正午から6時30まで、たっぷりと落語に浸りました。
「明烏」をやりました。

4日間の稽古量なので手探りでしたが、なんとか完走できました。
八叟さんに、「お土産を貰ってきます、やめときな」というクスグリと、「大店の親父の雰囲気」を教えていただきました。

さっそくその大店の親父の雰囲気でさらってみました。すると、走り始めのテンポがユックリしたので、徐々にテンポを上げていくことが出来ました。さらにずっといい感じです。

それから、今日は思い切って正座用のイスを使わないでやってみました。なんと、およそ40分、脚を痺れさせないで出来たのです。最後の坊やと同じにちょっと笑顔になりました。

また、我慢できなくて、ちょいと噺を弄りました。噺のおしまいに、坊やに帰りたくないと言わせて、さらに坊やにしっかりと、「えーっ、待って下さいよ、え、帰っちゃうんですか、帰れるモンならお帰りなさいよ」と、坊やを少し大人としての自信を持った坊やにしてみました。

もっと美味そうに甘納豆を食べなくっちゃと思ったり、

源兵衛と太助の出番が平等でないなあと思ったり、

お巫女頭と坊やの遣り取りが面白くなってないぞと思ったり、

親父は「そうかそうか」とちゃんと納得して送り出さなきゃと思ったり、

最後の花魁が「若旦那」と言って甘える方がいいかなと思ったり、

源兵衛と太助の悔しがり方が出来てないぞと思ったり、

ああ、坊やの「女郎を買うと」という一連の文句を飛ばしちゃったなあと思ったり、

なにより、吉原の様子、遊郭の内部の様子を綺麗に表現できていないと思いました。

そうだ、吉原に着いたときが夕方だとしたら、初午なんだし、うすら寒いはずだ、そのあたりの空気も伝えなくっちゃ。雨を降らせてもいいなぁ、その方が源兵衛と太助がさらに帰りたくない理由になるかなあ。いや、噺としてうるさいかな。

6時間半があっという間でした。
次回は2月18日木曜日1時位からです。
「明烏」はその日までと決めました。

2010年1月16日土曜日

ロマンスカー2

ロマンスカーにアナウンスが流れる。
「本厚木、本厚木です、お忘れ物の無いようにご注意ください」。

昼下がりのロマンスカーはそれでも十数人ほどの客がいた。いつものように、落語をサラっていたボクはそのアナウンスで顔を上げた。
なんと、全員が一斉に立ち上がっている。すでに、ボクの横の通路には人垣が出来ていた、入る余地は無い。

ドアが開いたようだ。少しずつ列が動き始めた。

列のおしまいは黒いコートを着た老人だった。左手に白いものを摘んでいる。何かなと見ると、ホッカイロだ。貼り換えたのかな、今日は一段と寒いからなと思いつつ、席を立ち、通路に出た。その時、数日前、財布を落とした事が頭をよぎった。

それも同じ本厚木駅でロマンスカーを降りるときのことだ。急いでシュウマイを食べ切って、ゴミをまとめて、慌てて立ち上がった。丸めてたコートのポケットから財布が落ちた。改札の前で気がついた。

諦めたのだが、出てきた。いろいろと嫌な事もあるけれど、不景気だけど、いい社会だ。
小田原駅で預かっているからという事で、受け取りに行った。しかも往復無料の切符を戴いてだ。まことに申し訳なく、届けてくれた名も告げない何方様と小田急様に心から感謝した。

ボクは今、まさに席を立った直後だ。もう一度、落とした物は無いかと、席の下まで目を這わせた。それが老人との間に3メートルの間隔を作ってしまった。

ロマンスカーは左右に二席ずつ座席が並び、中央に通路がある、その先に扉があり、踊り場、そして左右に出入り口だ。

老人の姿がその扉の向こうに消えると同時に、海鳥が騒いでいるような音がして、それはドヤドヤと現れた。大声で斜め上の座席番号を確認しながら、それは膨らんだコートでいっぱいに通路を塞いだ。

「どうぞ」と言ったわけではないが、あと2メートルほどで扉なのだからと通路を譲って、座席の前に立った。
ところが、それのお友達のそれが、次から次へと8人も現れるじゃないか。

ロマンスカーの通路はすれ違うには狭すぎる。
ジリジリと待った。
ボクはそれ達一団が過ぎたと同時に、脱兎のごとく踊り場に飛び出した。
「プシューッ」
閉まりゆく扉のわずかな隙間から、陽光に照らされたホームの眩しい光が消えていった。

去りゆくホームを暫し眺めて振り返れば、ワイワイと憎めない笑顔達が座席を向かいあわせにしようと奮闘していた。

2010年1月10日日曜日

ロマンスカー

最近、小田急のロマンスカーに良く乗るのですが、
夕方はどれも満席です。
本厚木までなので、これが、本厚木に停まるのが限られているためなのか、よけい混んでいるような気がします。

このあいだ、時間ぎりぎりでしたが、なんとか駆け込んで乗れたときのことです。
いつものように窓際の席のチケットを持って、1、2、3、4と番号を数えて席をさがしていきますと、その11番Aの席は背中を向いていました。
そうです、ロマンスカーは座席をクルッと回転させて4人掛けのパーティ席に出来るのです。
嫌な予感は的中しました。

そこには、11番Aの他の3つの席は全て、マダームがお座りだったのです。
滑るように列車は新宿を後にしました。
幸いにもまだ外は明るかったので、景色に目を落ち着かせておくことが出来ました、しばらくは。
しかし、気がつくと、中央にしつらえた小机の上には竹輪が出現していたのです。
竹輪ですよ。

しかも、私は何時もの癖で売店でプレミアム・モルツを購入済みです。
もうすぐ新百合ヶ丘です。
ここらで呑み始めないと、温くなってしまうばかりか、
本厚木に着くまでに呑み終えられないなんて事になったらと。
思い切って、いや、気持ちは思い切ってなんですが、
音のしないように、目立たないように、
細心の注意を払って開けたのです。

それは、ここでビールを開ける、
竹輪が前にある、
竹輪を薦められる、
「ところで」から始まる質問に答える、
すると「あら、いやだ」からの無限連鎖が核反応のように増殖する。
それは本厚木まで続く、
いや、最悪の事態として本厚木のホームから4名様として歩き始めてしまう。

そこまで考えなくとも、このビールが、いかに大変危険な物かは分かっていました。

ですから、もう、それは、
売店のおばちゃんが入れてくれた白い袋から
蓋の部分すらも見えないように、
指先に力が入っていることさえ悟られないように、
息づかいもゆっくりと、開けたのです。

「カチン」

オイオイオイオイ、「カチン」て言うなよ、
と思ったときには既に遅く、
3人のにこやかな笑顔がこっちを向いていました。

「竹輪いかがですか」
来ました。
あっという間もありません。

しかし、こんなときは、
取って置きの切り札があります。

「い、いや、けっこうです」
ちょっと咬んでしまいましたが、大丈夫。
絶句です。
完璧です。


やった、これで本厚木まで静かな旅になるはず、だったんです。
ところが、
なんと、
なんと敵はさらなる切り札を切ってきたのです。

「まあまあ、チクワ一時の恥よ、どうぞ」

それは、まだ新百合ヶ丘を出たばかりのことでした。

                                           

2010年1月8日金曜日

高座という舞台の3

落語は浸るもの、なのかもしれません。
それは、風呂というより、旅行に近いもの、それも、初めての町や、島といった未知の環境に浸っている感覚でしょう。
それをお客さんと一緒に味わうのが落語なのかもしれません。
そのためには、味わえる環境を構築しなければ。
前回の「目を通して表現していく」という手段は、旅行で、新しく経験したり、見たりしたことを再生するのに、感動をも含めて再生するということでしょう。浸る為の環境作りには、お客さんと一緒になって、その周りに、気持ちの壁を一枚一枚建てていく作業が必要なのだと思います。
この気持ちの壁が現実を遮断してくれれば素晴らしい落語です。

ではこの気持ちの壁を建てるにはどうしたらいいのでしょうか。それが「目を通して表現していく」過程の中で何処に建てていったらより効果的なのでしょうか。
よかったら、是非ご一緒に、そんな旅に出かけませんか。

2010年1月5日火曜日

高座という舞台の2

野球を見ていると、ピッチャーが投げると、それに対応するバッターに意識が移ります。
投げた後ピッチャーがどんな顔をしているかなんて、考えたこともありません。
これが、真っ暗な海に向かって石を投げているとしたならどうでしょう。投げた後に、なぜ石を投げているのかなと、表情を見てしまうのではないでしょうか。

落語ではピッチャーが構えてから投げるまでを見せることはたやすいのですが、その間のバッターの動き、また、投げてからのピッチャーの表情を伝えることが難しい。

けれど、バッターを見ているのはピッチャーも見ているのです。ですから、バッターを見ているピッチャーを表現することでバッターを表現できるのではないでしょうか。

それを表現できれば、高座という舞台空間がより広くなっていくと思います。

前回の宿題、落語の中で相手が背中を見せたり、うずくまったりして、顔を隠した相手に話しかけるようにするにはどうしたら良いのか、にはそれを見ている者の目を通して見ていることを表現しつつ話しかけるということがその答えの一つではないかと思うのです。

互いに二者が向かい合っている落語から、互いに背を向けている落語に変えていける気がしてきました。

高座を大きく広く立体的な空間として作り上げていくためには、時々圓窓師匠がおっしゃるように「大切なのは目」なのでしょう。

その目が何をどう見ているのか、目そのものを使って表現することとその目を通して表現することが落語の舞台を構築する要点だと思います。

では、その目を通して表現していくとは、落語のなかで、どんなときにどのようにしたらよいのでしょうか。

うーん、では、夢の中で一緒に考えてくれますか、それでは、おやすみなさい。

2010年1月4日月曜日

高座という舞台

落語はたいてい、1人が1人に話しかけます。
大勢が居たとしても、1人が1人に話しかける形で大勢と話します。
現代劇では1人が1人に話すとき、例えば、長椅子に列んで腰掛けているときなどは、顔を見ながら話さないという様子を時々見ます。さらには、背中合わせに近いような形で座っていたりもします。落語ではたいてい、「上下を切る」といって、相手の顔を見て話します。
なぜ、現代劇では顔を見ないで話す事があるのでしょう。
今夜はこの点を考えてみたいと思います。

まず、形から見てみましょう。
現代劇では互いに顔を見合わせれば、お客さんは横顔を見ることになり、表情が見えにくくなります。表情を見やすくするという点では落語も同じです。落語では上下の切り方を小さくして表情を見せるようにしています。つまり、形の上からは現代劇は二人、落語は一人という違いが顔の向きの違いになっているのです。
しかし、現代劇には背中合わせに近いような形で座ることもあります。ここにはなにか特有の意識が働いているように思います。表情を見やすくするというだけなら、なにもそこまでする必要はないと思うからです。

そこで、つぎに、機能から見てみましょう。
落語の上下を切ることは人物の切り替わりをハッキリと示すことや、場面転換を示すことです。現代劇において、顔を見ないで語ることは台詞の内容に注目して貰いたいときにも用いられます。そうではなくて、顔を見ながら、互いに見合って語っているのを傍から見ると、話している台詞の内容より、それに対しての相手の反応の方を意識していることに気づきます。
なるほど、落語では話しているときの相手の反応は見ようと思っても見えないのですから、相手の顔を見ながらの向かい合わせの形でも、お客さんに台詞の内容を注目して貰える訳です。

そうか、ここまで書いて気がついたことがあります。
それは顔を見ながら相対して話をしているのを傍から見るとき、話している本人よりも、話されている相手の反応の方を意識しているということです。次に来るだろう相手の反応を考えて相手を見てしまうからなのでしょう。
現代劇では時に、背中を見せたり、うずくまったりして、顔を隠した相手に話しかける様子が見られます。これなども、見ているお客さんにそのような考えを引き起こさせる効果があると思われます。

では、落語の中で相手が背中を見せたり、うずくまったりして、顔を隠した相手に話しかけるようにするにはどうしたら良いのでしょうか。これができれば、もっと台詞を際立たせることができます。

うーん、では、夢の中で一緒に考えてみましょう、それでは、おやすみなさい。

2010年1月3日日曜日

「芝浜」の大晦日の夜

「芝浜」の大晦日の夜は雪であってほしい。

窓を開けると雪が降っているなんてえのには、
何時でもドキドキするものです。
私が北海道生まれだから、
という訳ではないと思いますが、どうでしょう。

そういえば、あれは何年前のことでしたか、
東京にも大晦日に大雪が降ったことがありました。

私にとってお正月の雪は、
洗われるような、清廉なものです。

そう、
雪はゴミや汚ればかりでなく、
雑音も消してしまいます。
いかがでしょう、
白い静かな雪の夜こそ
大晦日に相応しいと思いませんか。

そして、雪見酒と洒落込んで、
「芝浜」の清しい喜びを
雪に託して表現するなんてえのは
悪くない気がします。

私の持っている録音録画では、
「雪が降るもんかね、
笹がサラサラ触れ合ってるんだぁね」
と、たいていこう言っています。

しかし、
風が強ければ音もするでしょうが、
雪はそんなふうに音を立てません。
音がするとしたら、降り積もった雪が落ちる音です。
「バサッ」とでも表現するしかない音です。

そこで、こう創ってみました。

「おい、今、バサッって音がしたぞ。ん、なんだ、雪じゃねえよな、(障子を開ける)おい、見ろよ、綿帽子みたいになって、ほら、落ちてくるぜ、あ、(指先で框に積もった雪を取る)もうこんなに積もってる、こりゃあ明日は真っ白だ。きれえな正月になるなあ、どうだい、こう雪の中を通ってくる風なんてえものは、ひんやりと湿ってて気持ちがいいもんだ、こうゆう雪を見ながら、雪見・おっとっと、いやいや」

「え、おまえさん、雪見酒だね、呑みたいのかい」

「冗談じゃねぇや。いいんだよ、
茶、いっぺえくんねぇ」

2010年1月2日土曜日

御慶

明けましておめでとうございます。
千一亭本当より
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

落語を生活に取り入れるようになって1年、
三遊亭圓窓師匠に稽古をつけて頂くように
なってから半年が過ぎました。
思うに、私にも、実生活では、一年の間、
様々な事がありました。
あーだの、こーだの、
ぼんやりしてしまうような思いもありました。

ところが、今年は、今までとどこか違うのです。
そうですね、
例えて言うと、
胸に風が吹き込んできたような時も、
その風に震えているんじゃなくって、
隣の暖かいお風呂にちょっとだけ
入ってみるような感じです。

そうなんです、御明快。
お風呂とは落語の事です。

私にとって、落語とは
ゆったりと浸かれる
お風呂のようなものなんです。
そんなお湯が半年の間に10個もできました。
心も体も疲れたなぁと思っても、
このお風呂に入ると、心も体も解れます。
でも、脚は痺れます。

今、一番新しいお風呂は「芝浜」です。
ゆったりと浸かっていると、
じんわりと涙が出てきます。そして、
「よかったね」と言ってやっている自分が、
ホカホカと暖まっていることに気づきます。

確かに現実逃避かもしれません。
いや、そこでは明らかに、
現実を考えることから逃げているのです。
穴蔵に逃げ込んでいるようなものかもしれません。

そんな落語という穴蔵は
ドングリを捜しているだけの
小動物のような存在の自分にとって、
嫌な思いに襲われることのない、
安心出来る場所なのです。

それに、この森には仲間がいます。
いろんな仲間です。
それはそれはとっても賑やかです。
今年も、
ラグビーの森、
ドラムの森、
落語の森と、
森の中をお散歩します。
そういえば、去年はいろんなものを見つけました。
今年はどんなものが見つかるのかな。

おっと、可愛く言い過ぎちゃいましたね。
悪い癖です。
悪い癖と言えば、
ある小動物にはドングリを土の中に隠しておいて、
冬になったら雪の下から掘り出して
食べる習慣があるんですが、
時々埋めた場所を忘れちゃうことがあります。

先日、片付けていたら、
あっちこっちから電卓が
何個も何個も出てきちゃいました。
仕舞った場所を忘れては買ったものです。
間抜けですね。

「いやいや、電卓だもの、
それだけ打ち込んでいたってことだよ」
という仲間の声が聞こえてきそうです。

今年もなにとぞご贔屓に、
見苦しき面体見知りおかれまして、
恐惶万端ひきたって、よろしくおたの申し上げます。

2010年元旦 千一亭本当