2017年8月26日土曜日
志ん諒のひとり言 その 6
落語とは何でしょう。
と言いつつ、まだ落語そのものの話をしていませんでした。
それでは、これから落語の地平を造り、その造り上げた地平にお客さんを招き、お客さんと一緒に歩んで行きましょう。
おっと、歩んでいくって、どこへ行くのでしょうか。旅には目的地が必要です。
そこで今回は、まず、落語をする目的を考えましょう。
落語をしようと思う人は何かしらの自信を持っているはずです。それがどこにも根拠のない自信であったとしても、「自分にはできるんだ」と思うからこそ落語に挑んでいるわけでしょう。「いや、自信なんかないよ」という人だって自分への期待はあるはずです。いずれも自分の可能性を信じていることにほかなりません。そんな気持ちを沸き立てているものは何かと考えてみましょう。その心の動きを考えてみましょう。確実にどこかにある熱い思いを考えてみましょう。実はそれこそが落語に最も大切なものです。そして、落語の目的につながるものです。
「魂振り(タマフリ)」という言葉があります。魂をゆさぶって活力を沸き立たせることです。
そうです。これこそが落語の目的です。
そして「魂振り」を起こさせる力こそが確実にどこかにある自分自身の熱い思いなんです。
おっと、「じゃあ」と言って感情を大げさにぶつけるような落語をしないで下さいね。それでは落語が台無しです。かといって感情を殺すのも同じ事です。落語には独特の感情表現があるんです。このことについては章を改めてお話しします。
「魂振り」の結果として生まれてくるものが笑いだったり、涙だったり、食い入るような視線だったり、場内の一体感だったりします。ですから、笑いや涙や視線や一体感が目的ではなく、「魂振り」こそが落語の目的です。
古今亭志ん朝さんの父、古今亭志ん生さんが病で倒れてからというもの、「お客さん達が、『しゃべらなくてもいいから志ん生に高座に上がって欲しい、そこで酒を呑んで寝ちゃってたっていいんだ、ただ志ん生が高座にいてさえくれればいいんだよ』とね、言ってもらえてほんとありがたかったですよ」と古今亭志ん朝さんが言っていたそうです。
落語家も超越したときにはもはや言葉は不要なのかもしれません。そうなったときには、もはや落語は話芸ではないのかもしれません。
「魂振り」は「鎮魂」でもあります。それは死への動揺を鎮め離れる力です。つまりは生きていく活力です。
落語家の一人の活力が場内のお客さんと一体となり何十倍もの活力となります。落語家はその活力をいただくので、良くできた落語の後は全く疲れを感じません。いや、かえってより元気になっています。もしかするとお客さんも元気になっているのではないかと思います。
では「魂振り」という目的に向かうにはどうしたらよいのか、次回はまた一歩落語の世界に踏み込みます。ご期待下さい。
(来月もつづくぞ)
と言いつつ、まだ落語そのものの話をしていませんでした。
それでは、これから落語の地平を造り、その造り上げた地平にお客さんを招き、お客さんと一緒に歩んで行きましょう。
おっと、歩んでいくって、どこへ行くのでしょうか。旅には目的地が必要です。
そこで今回は、まず、落語をする目的を考えましょう。
落語をしようと思う人は何かしらの自信を持っているはずです。それがどこにも根拠のない自信であったとしても、「自分にはできるんだ」と思うからこそ落語に挑んでいるわけでしょう。「いや、自信なんかないよ」という人だって自分への期待はあるはずです。いずれも自分の可能性を信じていることにほかなりません。そんな気持ちを沸き立てているものは何かと考えてみましょう。その心の動きを考えてみましょう。確実にどこかにある熱い思いを考えてみましょう。実はそれこそが落語に最も大切なものです。そして、落語の目的につながるものです。
「魂振り(タマフリ)」という言葉があります。魂をゆさぶって活力を沸き立たせることです。
そうです。これこそが落語の目的です。
そして「魂振り」を起こさせる力こそが確実にどこかにある自分自身の熱い思いなんです。
おっと、「じゃあ」と言って感情を大げさにぶつけるような落語をしないで下さいね。それでは落語が台無しです。かといって感情を殺すのも同じ事です。落語には独特の感情表現があるんです。このことについては章を改めてお話しします。
「魂振り」の結果として生まれてくるものが笑いだったり、涙だったり、食い入るような視線だったり、場内の一体感だったりします。ですから、笑いや涙や視線や一体感が目的ではなく、「魂振り」こそが落語の目的です。
古今亭志ん朝さんの父、古今亭志ん生さんが病で倒れてからというもの、「お客さん達が、『しゃべらなくてもいいから志ん生に高座に上がって欲しい、そこで酒を呑んで寝ちゃってたっていいんだ、ただ志ん生が高座にいてさえくれればいいんだよ』とね、言ってもらえてほんとありがたかったですよ」と古今亭志ん朝さんが言っていたそうです。
落語家も超越したときにはもはや言葉は不要なのかもしれません。そうなったときには、もはや落語は話芸ではないのかもしれません。
「魂振り」は「鎮魂」でもあります。それは死への動揺を鎮め離れる力です。つまりは生きていく活力です。
落語家の一人の活力が場内のお客さんと一体となり何十倍もの活力となります。落語家はその活力をいただくので、良くできた落語の後は全く疲れを感じません。いや、かえってより元気になっています。もしかするとお客さんも元気になっているのではないかと思います。
では「魂振り」という目的に向かうにはどうしたらよいのか、次回はまた一歩落語の世界に踏み込みます。ご期待下さい。
(来月もつづくぞ)
2017年8月6日日曜日
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