落語とは何でしょう。
前回は落語で状況を描写するさいの感情表現を考えました。大切なところだけを単純に示すことで、そのものの本質を呼び起します。いわば、感情表現で状況にスポットライトを当てているようなものです。それは西洋絵画に例えれば、シャルダンの花の絵のようで、周囲をぼかし本質を単純に示します。
しかし、単純に示すばかりが感情表現の使い方ではありません。
今回は感情表現の持つ複雑さの表現について、人間関係の描写を通して考えてみます。
落語で人間関係を描こうとするとき、落語ではどんな人間関係を基本とするのかという定義をさけて通れません。ただ、厳密に考えるならば、これには時代の要請を含めて多くの要素から考えなければならないと思いますので、後の章で考えます。ここでは仮に、ざっくりと、落語の人間関係は「根底には家族的な強い信頼を持つ関係性」つまり「仲良し」と定義しておきます。
この上で、感情表現の使い方を考えます。
会話はよくキャッチボールに例えられます。そこで落語の会話をキャッチボールの様子から考えてみましょう。
①「ボール」を投げる
②「ボール」をミットで受ける
③「ボール」を投げやすい握りに持ちかえて投げる
ここで「ボール」を「気持ち」に置き換えてみましょう。すると会話を表現するときの感情表現の要点が見えてきます。
①「気持ち」を投げ込む時手から離れる動き
②「気持ち」を受けるときミットに収まる動き
③「気持ち」を持ち換える動き
ここで②の感情表現こそは登場人物が相手に対する気持ちを示す部分で、落語を聴いているお客さんに登場人物の人間関係を象徴的に捉えてもらうための部分です。
また、「ボール」の滞空時間が距離を示すように、「気持ち」の間が人間関係の距離を示すこともあります。
これらの要素から、お客は登場人物の互いの関係性と人柄や状況設定を理解します。
たとえば、「時そば」の会話で、そば屋が
「まことに①冷え込みますよ」
すると男が
「②驚いたよ。あんまり寒いんでね。③こうゆう時にはナンかあったけえものでも腹ん中に入れねえといけねえと思ってさ」
と言います。
このなんでもない会話でも、息が白くなるほど冷え込んだ江戸のとある道端の風景で、お客が来て喜んでいるそば屋の気持ちと、これから温かいそばを食べられると思って喜びながらも、うまいことやって一文ごまかそうという悪だくみで軽く緊張しながら、常習だからこその手練れな饒舌で上辺だけをなぞるような本心のない言葉を並べている複雑な男の気持ちが伝わってくるように表現したいものです。
次回は感情表現が持つ音楽的な要素から落語を考えます。気持ちの良い落語の音の作り方を考えます。ではまた。
(来月につづきます)
2017年12月7日木曜日
2017年11月26日日曜日
2017年11月20日月曜日
志ん諒のひとり言 その 9
落語とは何でしょう。
前回は落語における感情表現の仕組みと使い方について考えました。今回はその使い方をもう少し広げて考えてみます。
落語には舞台装置がありません。演劇舞台の書き割りや大道具のようなものはすべて言葉で出現します。そこにあるものを説明するのではなく、言葉で出現させるのです。ここがドラマや演劇のナレーションと似て非なるところです。
「船徳」で桟橋の場面や「百年目」で船から土手を見た景色を表現する場面などがいい例です。
「船徳」では、「どうだいこの景色。ほぉら風が違うよ。やっぱり川を渡ってくる風は違う、ねぇ、涼しいよ」と、登場人物が語ります。
また、「百年目」では、「障子をぱぁっと開けますってぇと、もぅ土手は満開の桜でございます」と、落語家が自分の言葉で語ります。
この場面、実は「百年目」の見せ場です。お花見の明るく華やかな情景を想起してもらうところです。
ですが、文字を追っただけの説明ではお客は「ああそうなんですか」といった感想を持つくらいでしょう。
そうではなく、春の暖かな風に桜の花びらがチラチラと舞う一面満開の桜色に染まった景色のようにお客に感じてもらうために、落語では直接感覚に訴えます。
状況を説明するのではなく、状況から感じた感情を提示することで、お客はその感情を自らの感情に置き換えて、その感情から引き出される状況を想起します。
状況をいろいろと説明するとお客の想起する状況と違うものがあったりするとお客は「おゃ」と疑問を持ってしまいます。そんな情報は余計なものです。
この場合、落語家はお花見の感情を提示することに集中する方が、情景の詳細な説明という余計な情報に邪魔されることなく、お客はそれぞれが持つお花見の情景を想起できるでしょう。
ここで気付かれた方もいらっしゃるでしょうが、落語で大切なのは作られた状況を正確に話すことよりも、お客が自らの中に、状況を作る余白をできるだけ大きく取って話すことです。
その手法のひとつが感情で状況を表現することです。しかし、余白を大きく取る、すなわちそこからお客が世界を広げながら状況を作るための手法は感情表現ばかりではありません。
「船徳」での、「四万六千日、お暑い盛りでございます」など、様々なものがありますが、それらについては章を改めて考えたいと思います。
次回は、いよいよ、感情表現が落語の本質である人間関係にどう働くのかを考えます。ではまた。
(来月につづきます)
前回は落語における感情表現の仕組みと使い方について考えました。今回はその使い方をもう少し広げて考えてみます。
落語には舞台装置がありません。演劇舞台の書き割りや大道具のようなものはすべて言葉で出現します。そこにあるものを説明するのではなく、言葉で出現させるのです。ここがドラマや演劇のナレーションと似て非なるところです。
「船徳」で桟橋の場面や「百年目」で船から土手を見た景色を表現する場面などがいい例です。
「船徳」では、「どうだいこの景色。ほぉら風が違うよ。やっぱり川を渡ってくる風は違う、ねぇ、涼しいよ」と、登場人物が語ります。
また、「百年目」では、「障子をぱぁっと開けますってぇと、もぅ土手は満開の桜でございます」と、落語家が自分の言葉で語ります。
この場面、実は「百年目」の見せ場です。お花見の明るく華やかな情景を想起してもらうところです。
ですが、文字を追っただけの説明ではお客は「ああそうなんですか」といった感想を持つくらいでしょう。
そうではなく、春の暖かな風に桜の花びらがチラチラと舞う一面満開の桜色に染まった景色のようにお客に感じてもらうために、落語では直接感覚に訴えます。
状況を説明するのではなく、状況から感じた感情を提示することで、お客はその感情を自らの感情に置き換えて、その感情から引き出される状況を想起します。
状況をいろいろと説明するとお客の想起する状況と違うものがあったりするとお客は「おゃ」と疑問を持ってしまいます。そんな情報は余計なものです。
この場合、落語家はお花見の感情を提示することに集中する方が、情景の詳細な説明という余計な情報に邪魔されることなく、お客はそれぞれが持つお花見の情景を想起できるでしょう。
ここで気付かれた方もいらっしゃるでしょうが、落語で大切なのは作られた状況を正確に話すことよりも、お客が自らの中に、状況を作る余白をできるだけ大きく取って話すことです。
その手法のひとつが感情で状況を表現することです。しかし、余白を大きく取る、すなわちそこからお客が世界を広げながら状況を作るための手法は感情表現ばかりではありません。
「船徳」での、「四万六千日、お暑い盛りでございます」など、様々なものがありますが、それらについては章を改めて考えたいと思います。
次回は、いよいよ、感情表現が落語の本質である人間関係にどう働くのかを考えます。ではまた。
(来月につづきます)
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