「いよっ、あーた、はは、どー、すごいっ」
いいですねぇ、
この目がなんともいえない、ね、
左手の指がきちんと伸びてます、
あの親指がなかなかできません、
あの形から、外に円弧を描くように
ぐるっと動かして、
「アサガオの黄色いのなんか、
もう、真っ白に、
きれーーいにしちゃうんだから」
なんて言っちゃう、
ねぇ、
どこをとっても素敵だなぁと思う、
ね、
ん、
もう志ん朝さんには会えないけれど、
志ん朝さんという芸術は常に傍にある、
その
志ん朝さんとはなんだろう、
ね、
落語がときとして、
現代社会に失われつつある何ものかを
気づかせてくれるモノだとしたら、
落語には現代社会が求めている何ものかが
明らかにあるわけで、
志ん朝さんのはなしに感動するとは、
その何ものかが、
その感動の中にあるのだから、
まさに、
志ん朝さんの芸術は
現代社会に感動をもたらすもの
であることに違いなく、
つまりは、
現代社会を反映させている
志ん朝さんという芸術は
実に現代的だ
だから、
志ん朝さんには会えないけれど、
明らかに
志ん朝さんは今を生きている
その反映の中に
今を問いかけながら
心に心を動かされる実感が
確かに
志ん朝さんの落語にはあるのだ
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