落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2013年12月11日水曜日

今も聴きながら書いています

モーツァルト。ぼくがここでモーツァルトについて書くなんて、正に何をか言わんやです。ですが、ちょっとだけ、備忘録としてメモっておきたいと思います。それは最近時々聞いているモーツァルトの曲に思ったことです。

Divertimento in D major KV 136,II Andante

String Quartet in B-Flat Major, K.458,II. Menuetto, Moderato


以前、といっても遙かな以前ですが、フルートの曲をよくスピーカーから聴いていました。特に、ペータールーカスグラーフを聴いていました。木の柔らかな響きが感じられる演奏です。その頃はレコードで、スピーカーの自作が流行っていました。オーディオブームという時代です。ですから、宇宙に旅立って未知の惑星を歩いているような感覚で、本物のフルートを聴いたこともないのに、スピーカーからの曲に、実際その響きを味わった気になってはうっとりしていました。

そんなとき、レコードに入っている解説に「モーツァルトはフルートという楽器が好きではなかった。」と書いてあったのを憶えています。こんなにいい音色なのに何故だろうと、ずっと不思議でした。

上の二つの曲は弦楽器の合奏曲です。モーツァルトが管楽器を好まなかったのは、もしかすると、合奏し難い楽器だからかもしれません。それはこの曲を旋律ではなく、音として味わうと、なんとも良く出汁のきいた深みのある音が味わえます。それはおそらく合奏だからこその音なのでしょう。


音楽の無知を恥じて書きますが、モーツァルトの旋律はかなりのものが似ているように思えます。けれど何れもが素晴らしい曲ばかりです。もしかすると、モーツァルトは旋律やリズムに囚われずに
音そのものにこだわっていたのではないでしょうか。弦楽器はハーモニックス奏法で音に更なる深みを加えられます。それが幾重にも重なるわけですから、その無限ともいえる音の変化に魅せられていたのかもしれません。

今、モーツァルトが作った音を聴いています。音が何かを震わせています。ジャグジーの泡のように何かを震わせています。



落語の目指すところもまた、その何かを震わせることと思っています。もしか、いやきっとそれは、落語の話の筋や話のテンポではなく、音なのかもしれません。いえ、音はエネルギーの波ですから、音が振動させるのは当たり前ですが、落語では時々、言葉無く、無音であっても振動がお客さんに伝わっている感覚を味わうことがあるんです。けれど、その時は黙っていても、力は全身から出ています。

そう、全力で話した後にはそんな『伝わった』という充実感があります。



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