落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2014年12月14日日曜日

距離

World of Warplanes(ワールド オブ ウォープレーンズ)というネットゲームがある。サーバーと呼ばれるコンピューターに最大30人が集まって、主に第二次世界大戦で使われた各国の軍用機で空中戦を楽しむ。サーバーはまだアメリカだけにしかないため、アメリカの特に東海岸からの参加者が多い。15人対15人の空中戦は正に手に汗握る戦いだ。そこで知り合った戦友達とクランと呼ばれるグループを作り、機体にクランの紋章を貼って戦う。おのずと生まれる連帯感と勝敗への感情の共有は、ゲームと言えども、そこはかとなく嬉しいものだ。それが、実に地球規模の繋がりなんだから、まあ、そう思うとなんともたまらない。コーヒーも美味くなる。


武器は主に機銃だ。距離が近いほど破壊力は大きい。接近して発砲した方が有利だ。なので、戦いとなると、ドッグファイトと呼ばれる追かけっこが、あっちこっちで始まる。そこでは追っている身が追われている身でもある。飛び交う弾丸を避けながら、全力で追って機銃を発射する。もう、夢中だ。必死という言葉がぴったりくる。もちろん、そんなときは笑う「ゆとり」などない。いや、まだまだ未熟だからということも言えるが。

しかし、なんとか相手を撃墜し、はるか遠くで戦っている戦友を助けるべく、穴だらけになった愛機の翼から黒煙をたなびかせながら、全力で駆けつけて行くとき、思わずふと笑いが込み上げることがある。

リアリズム演劇において、観客は役者を通して、役中人物に感情移入する。観客は役中人物へ接近、同化してゆく。その時、正に観客は舞台に夢中だ。それが、ある瞬間、観客は役中人物から離れて、自分自身に立ち返り、演じている役者の上に役中人物を見る。そんなとき、思わずふと笑いが込み上げることがある。

ここで、ブレヒトの言う「距離」が、笑いと密接に関わっていることがわかる。

舞台と観客との距離が短ければ短いほど悲劇的であり、距離をはっきりと意識できるとき喜劇的になる。主観からは悲劇的要素が増し、客観からは喜劇的要素が増してくる。

その距離をどう制御するかが落語家の腕前というわけだ。そんな思いと共に撃墜王を目指すも、今夜も華々しく大空に散っていくボクでありました。

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