落語とは何でしょう。
一人で語る演芸や芝居と落語はどう違うのでしょう。
車は快適に乗れればいいので、車の仕組みなんか知らなくたっていいんです。でも、車の仕組みを知っていると車に乗っている楽しみが増えることもあります。例えば、カーブを曲がる時に少し傾くのには、ちゃんと訳があります。
落語も仕組みが分かると、もっと楽しくなるに違いないと思ってこの連載を書いています。落語を考える連載も5回目ですが、まだまだ落語の「イロハのイ」です。
今は落語の周囲を見まわしています。すると、落語がとても変な環境で話されている事に気づきます。
その落語の環境を空間と時間とに分けて考えてどんなに変なのかをお話ししました。
今回はそんな中、落語の話し手と聞き手の関係もちょっと変だというお話しをします。
まあ、知り合いが聞きに来てくれることもありますが、落語会で集まっている人々はおよそ知らない人たちです。
知らない人同士、初対面ならまず挨拶を交わすでしょうが、落語会では演者も客同士も挨拶を交わすことはありません。それなのに落語が始まると家族のように一つになって大声で笑うんです。時には海辺の波のように何度となく笑いの波が打ち寄せます。
そして、落語家は何人もの客にたった一人で見下ろしながら一方的に話します。それを見上げてひたすら話しを聴く客がいます。落語家が好きに話しをするのですから、もちろん話しの主体は落語家です。
しかし、落語は客の頭の中に描き出されて、初めて楽しめるものですから、落語会としての主体は客なんです。
落語会は高座という壇の上にいる落語家が一方的に話しているにもかかわらず、主体は壇の下の客なのですから、見かけとは反対になっています。主客転倒という字の通りになっています。
もちろん、落語の環境としての落語会会場は落語家の作業の場です。それは以上のことからまとめると、落語家が話という道具を使って「落語が好き」という意識で集まった客たちを一つにまとめる作業の場と言えます。たとえれば、落語家はバスガイドのような仕事です。バスガイドは客を一つにまとめ景色を説明します。似ていますが、落語家がバスガイドと違うところは、説明している景色までも自分自身で造っているところです。
落語の環境を地平にたとえてみます。するとその地平は平坦でないばかりか、傾斜もきつく、だらだらと長く、しかもかなり狭いことがわかります。
さらには落語を仕事にする人ならば、つねにその地平の崖っぷちを歩いているようなものかもしれません。
しかし落語家はその先に話という山や丘を自らの手で造り出し、その頂を客といっしょに目指します。そう、この落語という地平の最大の特徴は、なにより落語家が地平そのものを造形していることです。だからこそ、落語家はその造り出した自らの地平にお客がたずねてくれることを誇りにしているのです。
ではそんな地平をどのように造り、どのようにお客といっしょに歩んでいくのか。次回はいよいよ落語の地平に足を下ろします。次回もお楽しみに。
(来月もつづくぞ)
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