落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2020年10月26日月曜日

第108回志ん諒の会


 「落語で余裕を」           千一亭志ん諒  はるか以前に読んだ「海」と題し た一行だけの詩を覚えている。それ は「両手ですくえば一杯の水」とい うもの。この「両手で」に温かいも のを感じるものだから、いつまでも 私の頭に残っている。「両手で」が なければ、そりゃそうだよねと直ぐ に忘れてしまったことだろう。  温もりのある言葉は思い出すとあ たたかくなるもので、だから自ずと 忘却から逃れているのだろう。  なんとなく自分が歳と共に優しく なっている気がするのは、そんなふ うに積もっていった温々とした言葉 らに温められているからかもしれな い。  考えると、毎日の忙しい生活で温 もりを感じる事は少ない気もする。  少ないから何気ない言葉で温かく なれるのかな。いや、そうじゃない だろう。こんなふうに忙しい日常な ら、忙しさに追われてしまい余計鈍 感になるはずである。   そうじゃないのはきっと、言葉に 温かみを感じる余裕があるからに違 いない。  じゃあ、忙しい中でそんな余裕を 持てるのはどんな時なのだろう。  風呂に入る時、湯の熱さにもよる が、一日の疲れが体から湯の中に溶 け出していくような感覚を覚えるこ とがある。「ふぅぅぅ」とか「わぁ ぁぁ」とか、自然と声が出る。 例 えれば、この瞬間こそ余裕を感じる 瞬間である。ゆったりと湯の温かさ を感じて声を出す。いや、声を出さ ずとも静かに息を吐き出している瞬 間が余裕ができた瞬間であろう。  集中すると息が止まる。いやそう じゃない、息を止めて集中するので ある。集中する瞬間は緊張する瞬間 であり、余裕とは正反対の状態であ る。 ならば、温もりを感じるための余裕 ができるには息を吐くことが必要と いうことになる。

 しかし、息は無意識でしているも の、無理に意識して息を吐く事は出 来なくは無いが、直ぐに飽きてしま う。忙しい毎日で、余裕を作るため に意識して息を吐くなんて悠長なこ とをしている暇は無い。  ところが、息を吐く事を意識する こと無く強制的に息を吐かせること が出来るものがある。  「笑い」である。  笑うときには息を吐く、そりゃぁ、 吸いながら笑える人は居るかもしれ ないがおよそ少ないだろう。「はっ はっはっ」と腹の底から笑えば、苦 しいぐらいに息を吐ききることも可 能である。  なるほど、人情話も笑いがあるほ うが、その後の言葉に余計温もりを 感じることが出来る気がする。  落語に笑いが不可欠なのは、単に 落語が可笑しい話ということではな い。笑うことで気持ちが温まるので あれば、落語は忙しい日常の中に居 ながらも余裕の瞬間を容易に得るこ とができる。  更にはその余裕から言葉の温もり を感じることで自らを温められる。  そうなれば、温められた気持ちは 軽くなり、ふわりと現実の日常世界 から浮上して、高い空の上からゆっ たりと世界を見渡すような感覚を持 つことが可能になる。  時間があることは必ずしも余裕が あることでは無い。  余裕があるから落語を聴きたくな るのではないだろう。  むしろ余裕を求め、落語を聴くと 余裕ができると思うから聴きたくな るのだろう。  これからの寒い季節には落語をお 供にこたつに入り、お気に入りの言 葉らに包まれて、好きな酒を呑みな がらじんわりと温まりたいと思う。















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