落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2025年12月22日月曜日

第170回志ん諒の会 2025年12月21日

  本日は千一亭にお運びいただき、誠にありがとうございます。

年に一度、四人が集まるこの落語会。本日も桃月庵黒酉、入船亭扇太、桂南楽、千一亭志ん諒が、和やかにとっておきの噺をお届けいたします。
 さて、さきほど放送大学の講義で蜷川幸雄さんのお話を耳にしました。蜷川さんは「戯曲の台詞は変えない」と決めていたそうです。なぜかというと、戯曲家は一つひとつの言葉を恣意的に選び抜き、その連なりに作品の意味を託しているからだ、と。劇の意味は戯曲家が言葉で、役者が肉体で、演出家が構成で表現する。それぞれの役割を大切にすることで、一つの舞台が立ち上がってくるのだと教わりました。
 では、落語はどうでしょうか。古典落語にも台本のような「型」はありますが、落語家はそれを一度のみ込んで、いまを生きる自分の目と耳と心で咀嚼し直し、自分の言葉と身体で語り出します。過去の名人の物まねにとどまらず、師匠方から受け取った種を、きょうこの場の空気と皆さまの笑いで、もう一度咲かせる作業だと思っています。だからこそ、同じ噺でも、毎回すこしずつ姿かたちを変えながら、現代のお客さまの前で新しく息をし直していくのだろうと思います。
 ミーメーシス、つまり形だけをなぞるまねから一歩抜け出して、ここにいる皆さまと一緒に「いま」の物語をつくること。それが、今日この高座に上がる私のささやかな使命です。きょうお聴きいただく噺も、そんな「いま」の落語としてお届けします。せっかく足をお運びいただいたのですから、どうか遠慮なく笑って、驚いて、ときにはうなずいてください。同じ噺でも、話し手とお客さまが変われば、意味も色も表情も変わります。その一回性こそが、生の寄席のいちばんの贅沢でございます。
 どうぞ肩の力を抜いて、あなたの「きょうの一席」を、たっぷり味わっていってください。
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 落語に描かれる男女関係や夫婦の姿は、令和の私たちから見ると、まるで別世界の物語のように映ります。けれどもその違いは、愛情の深さや人情の厚みではなく、社会制度と価値観の「座標軸」が根本から異なることに由来しているのだと、最近つくづく感じています。
 古典落語の世界では、男女は個人同士というより、家と家、役割と役割が結ばれた存在として描かれました。男は外で働き世間と揉まれ、女は家を守り感情を受け止める。そうした性的役割分担が前提にありましたから、ワリカンという発想なんてのはそれ自体が存在せず、男が奢ることは甲斐性ってやつで、女を守ることは義務であると同時に、正に男の誇りでもあったのです。夫婦は一心同体、戸籍も財布も名も共有するのが当たり前で、昨今議論の別姓という考え方など想像すらされなかったことでしょう。
 女性が政治の表舞台に立つことなど考えられず、女の幸福は「良き夫に嫁ぎ、子を産み、家を円満に回すこと」とほぼ一本道で語られていたようです。一方で、男の幸福は語られないまま、黙って背負うものとされ、さだまさしが歌っている「亭主関白」という言葉の裏で、実は亭主こそ外圧にさらされ、家に帰れば小言と貧乏くじを引く哀歓の存在として、小沢昭一の笑いの種にもなっていたような存在だったようです。
 戦後、GHQによって兵役が消え、女子校の多くが共学へ再編され、婦人参政権が成立しました。ピルの普及によって性愛は自己決定の領域へ移り、恋愛は「運命」から「選択」へ、結婚は「家制度」から「契約」へと姿を変えていきました。女性の社会進出で、狙い通り、政府の税収は倍増し、子達の教育は母の手を離れ、政府機関に任されていきました。結果、性役割分担を失った女性の幸福の概念は大きく変貌を遂げ、ワリカンは対等の象徴となり、守られる存在だった女性は、ついには「自立する権利」を求める主体へと変わっていったのです。
 その過程で興味深いのは、「女の幸せ」は何度も言い換えられ更新されてきた一方で、「男の幸せ」は更新されないまま宙づりになり、落語的な不器用さを引きずったまま令和へ滑り込んできた点です。セクハラという概念の登場は、落語世界の無遠慮な男女いじりをそのまま持ち込めない現実を突きつけ、笑いの言語感覚も大きく再調整されてきたように感じます。
 かつては「男が守り、女が支える」片道通行の物語が共有されていたからこそ、夫婦喧嘩も恋の破綻も滑稽話に昇華できたのです。けれども令和のいまはどうでしょう。双方が自立を求め、対等を掲げながらも、守り合う物語の脚本そのものが書き換え途上と言って差し支えないと思います。これらのことをいろいろ考えると、噺の流れから安心して落とせるオチが見えにくくなっているのが現実です。
 落語は、制度が固まっていた時代の人情の機微を笑いで可視化してきました。令和はいま、制度が揺らぎ続ける過程そのものを生きているのは毎日のネットを見ても明らかでしょう。今日に生きる男女の関係は「決められた型をどう演じるか」から「まだ存在しない型をどう一緒につくるか」へと、静かに、しかし確実に変貌していると言えます。
 だからこそ、来年も私は高座に上がり続けたいと思うのです。古典の言葉を守りながら、荒波の中、いまを生きる皆さまと一緒に、新しい幸せな笑いの居場所を探していく。それが、令和を生きる落語家の使命であり、喜びでもあると信じています。どうぞ来年も、千一亭の高座で、皆さまとご一緒できますことを、志ん諒心より楽しみにしております。
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 みなさん、2025年もあと数日です。この年の瀬に今年もみなさんに私の芝浜を聴いてもらえて心から嬉しいんです。初演は父の病室でした。第1回志ん諒の会の演目でもあります。毎年毎年、ああでもない、こうでもないと考え続けて、今年の芝浜は、「夫婦二人で明るい未来に向かって歩み始める噺」を主題に選びました。
 酒ってのは、人の心の奥底に眠ってる恋愛感情まで引っ張り出しちゃう不思議なもんだと。まくらで、酒と恋愛感情の関係を振っておいて、そうすれば、噺の最後にあの場面が生きてくるはずだったんですが。
 ところが、肝心の場面を飛ばしてしまいました。そう、次回の私の課題は、締めをきちんと外さないことです。その場面とは、女房が「祝いに一杯やんなさいよ」って勧める。そこで亭主が「もう酒なんか要らねぇよ。だってよ、俺にはおまえってのが居るじゃねぇかよ」。これでした。
 この場面があると、亭主が酒を越えて、女房への愛情で生き直していく噺になると思っていました。まくらで振った「酒と恋愛感情」が、ここで回収されるはずでした。なんとも残念です。次回は確実に届けたいと思っています。
 昨年に続いての四人会でした。桂南楽さん、桃月庵黒酒さん、入船亭扇太さんと一緒に高座を踏ませていただいて、会場の掴み方、間の取り方、話し方、それぞれ違うやり方を目の当たりにして強く背中を押されました。

 そして、たくさんのお客さんと一緒に今年も素敵な時間を過ごせました。

 みなさん、本当にありがとうございます。

https://youtu.be/yy8vjGL6egk

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