落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2010年12月24日金曜日

宿屋の富2

“富くじ”発祥の地“箕面山瀧安寺”

そういえば
宝くじは今日まででした。
「宿屋の富」では売れ残りが大当たりします。
今日買うと、大当たりするかもしれません。

昨日、「湯島天神の境内の連中の単純さと対比されて」と書きました。
そう捉えておけば、明快なような気がしたのです。
けれど、そこすらも掘り下げていける様な気がしてきました。

そこで今日は、
複雑に心情を捉えることがなぜ大切なのかを整理しておきたいと思います。

感動は「気付く」ところに生じるようです。
同様に「芸術」とよばれるものは「気付く」ことを表現しているように思えます。
よく「芸術は社会を映すモノだ」と言われます。
それは、自分が、
ただ道端の花に心とらわれたとしても、
とらわれるには理由があり、
その理由には必ず社会が関わっていると思うからです。

話の中の人物に、複雑な心情を表現できるならば、多様な「気付き」を見出すことが出来るでしょう。
それは深い可笑しさを生み出す力になると思います。

単純な心情として表現するとき、その登場人物は思考することをせずに、目的意識だけで行動するような人物となってしまいます。
ただ行動を説明するだけとなってしまっては、
それでは情景を表現するのとなんら変わらないモノになってしまいがちです。
これが、ダレ場だと、眠りを誘うようです。
それは、聞く方が思考しないからです。
それは、登場人物が思考していないからにほかなりません。
話の中の人物は常に考え考え考えて進んでいくことがおもしろい話を作っていくことだと思います。

学校の講義で教科書を読んでいるだけの先生を見かけます。その講義は決まって眠い講義です。それは
思考していないからだと思うのです。

複雑な心情は思考しなければ生じませんし、思考していくことで心情は多面性を持ち、その境界で、さらに思考しなければならなくなります。

しかし、話の中で思索に耽るわけにはいきません。
リズムとテンポは大切です。
そこで、複雑とはいいながら、きちんと整理した人物を描く必要があるでしょう。

「宿屋の富」はその実習課題としては最適なモノに思えてきています。

0 件のコメント:

コメントを投稿