2010年12月23日木曜日
宿屋の富
いよいよ
「宿屋の富」です。
話をご存じない方には
今日の話はなんじゃこりゃだと思います。
ごめんなさい。
知ってるということにして続けさせて下さい。
宿屋の客がひととおり話した後で、
「あー
なけなしの一分取られちゃったよ
人は大きなことをいうもんじゃあねえってのは
全くだね
どこ行ったって
人のこと馬鹿にしやがって
ちょいと脅かしてやろうと思ったら
どういう育ちをしたのかね
少しはうたぐるがいいじゃねえか
引っ込みがつかねえから
言いてえだけ言っちゃったよ
弱っちゃたな
どうもなあ
一文無しになっちゃった
まあいいや
えー
当分の間
あんな大きなこと言っといたんだから
宿銭の催促には来ねえだろう」
と言いますが、
ここをまとめると、
「ちょいと脅かしてやろうと思ったら
ドンドン信じるもんで
引っ込みがつかねえから
言いてえだけ言っちゃったよ」
となります。
つまり、
脅かしてたら大きくなって、
富くじを断れなくなって、
一文無しになっちゃたというわけです。
だから、富くじを買うときは、
切なく、口惜しく、もどかしく、
はがゆく、じれったく、残念な
そんな複雑な形が見えなくちゃいけないはずです。
また、そんな複雑さを楽しんでもらうところでもあります。
この話は、単に宝くじに当たって喜ぶことを味わう話ではないことは言うまでもありません。
この話の何よりの醍醐味は、
宿屋の客のハラハラとした二面性の心情の上で、
その隠している正体が
時折、チラチラと見え隠れするところにあります。
「少しはうたぐるがいいじゃねえか」
と宿屋の客は言っていますけれども、
宿屋のアルジは
「ああさようでございますか
手前どもなんざ一旦入ったお金は
すぐに出てってしまいますが
どんどん増えると言うのは
結構な話でございますな
それはまたどういうわけでございます?」
と、その言葉に
宿屋の客に対する疑いが潜んでいるからこそ、
続く客の話は勢い大袈裟になっていくのでしょう。
さて、ここで宿屋のアルジは宿屋の客が言うように、
ただ疑ることの出来ない正直者なのかという疑問が湧きます。
なぜなら、その時点で、
宿屋のアルジの最大の興味は
宿屋の客がどんな生活をしているかではなく、
売れ残った富の札を
一分という大金で
宿屋の客に売りつけることにあるからです。
ちなみに一分とは
そのころ一ヶ月は生活できたお金です。
宿屋のアルジは富の札を売りたかったから、
作為的に煽るわけではないけれど、
敢えて疑問を挟まずに、
宿屋の客に気持ちよく
ホラを吹かせてやったとは言えないでしょうか。
だから
「えーと、子の千三百六十五番
これこれこれこれこれこれこれ
売ったんだよ客に
当たったら半分の五百両やるよなんてね
世辞でも嬉しいじゃないかな
子の千三百六十五番だ」
という宿屋のアルジの言葉の中に、
「世辞でも」と出てくるのでしょう。
やはり「世辞」として聞いていたのだと思う方が、
宿屋のアルジが普通の人に見えてきます。
宿屋のアルジの二面性は、
その言葉が少ないぶんだけ
表現しにくいです。
この話の難しさは
どうやらそこら辺りにあるようで、
この複雑さが、
湯島天神の境内の連中の単純さと対比されて
さらに際立ってくるというわけで、
ではその湯島天神の境内の連中の
単純さについては
また明日。
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