「俳優は空想することを愛さなければならないし、空想する能力を持つべきだ。これは最も大切な創造的能力のひとつだ。想像力のないところに、創造活動はありえない。想像力や俳優の空想の誘惑によってのみ、心のいちばん深い奥底から、生きた創造の欲求や生命力のあふれる俳優の精神的昂揚が呼び覚まされるのだ。俳優の想像の世界を経ずして生まれた役の人物は、魅力的にはなれない。俳優はどんなテーマでも空想できなければならない。俳優は子供のように、ありとあらゆるおもちゃで遊び、その遊びのなかに歓びを見出すことができなければならない。俳優自身が自分の選んだ戯曲の箇所から、自分自身の好みと直感に従って空想というおもちゃを選び出したなら、それは当然、俳優にさらに気に入り、俳優の創造的意思を夢中にさせるにちがいない。俳優は自分の空想を創造するさい、きわめて自由である。俳優は、作品の基本的な意図や創作のテーマの点で作者の考えと食い違わないようにしさえすればよいのだ。」(コンスタンチン・スタニスラフスキー)
もちろん落語家と俳優とでは多くの点で違います。ですが、作品に対峙したときの姿勢は似ていると思います。
「落語研究」と大きく高い編目を付けたのは、「落語研究」とは何をどのように研究するものなのかを明らかにしていきたいからです。
その趣旨で、主にネタおろしの演目に対しての考察を進めたいと思います。
序として、落語家と俳優とで大きく違う点のひとつを考えてみます。あたりまえのことですが、舞台の広さが違います。ですから、動きの制限が大きく違います。ことさら落語家には舞台の上で脚というものがありません。まあ、落語家の脚の動きは大きくて座布団の上でせいぜいが膝立ち程度です。
脚の踊りと言えばその代表はバレエでしょう。バレエ「白鳥の湖」の「四羽の白鳥の踊り(小さな白鳥の踊り)」では四人は手をつないでいるため、手は全く動きません。しかし、その表現は可愛らしくもあり、豊かです。そこでは、手の踊りと異なり、脚の動きで表現されるのは主に内発的感情でしょう。それは演劇においても同様で、脚の表現は感情表現として極めて重要です。
その脚がない落語家は、脚の表現ができない分、他の要素で補わなければなりません。また、動けない制約のなかで、作中の幾つもの舞台を自ら作らなければなりません。
などと考えるかたわら、別の考えも浮かびます。
それは、落語とは、脚の表現が不必要なくらいの、動く必要すらないようなくらいの、話だけに心が震い続けてしまうような話。それこそが落語なのだという考えです。
うーん、いかがでしょうか。どう思われますか。
とりとめなく、もやもやしていますが、とりあえず、「魂振り」(たまふり)こそが落語の目標と、これより新たに落語研究を始めたいと思います。
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