落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2014年11月18日火曜日

落語は花かな

落語では二人以上の会話がほとんどです。これを演劇の舞台で役者が台詞として語るとします。そのとき、一人の役者が台詞を語り終えた後、続いて、相手役が台詞を語っている間、役者は沈黙しているか、あるいは小芝居を打っているか、いずれにしろ、役中人物から自らの意識は、多少なりとも離れているわけです。そして、また自分の番が回ってきて、自分の台詞を語る段になって、再び役中人物として、演技するわけです。舞台上の役者の意識活動は、このように間欠的、断続的、あるいは多面的、多角的な性格を持つと言えます。

・これが落語では、物理的に、台詞の無い時間が極めて少ないため、舞台上の役者のように、断続的な演技への取り組みは出来ません。それは、たとえば、次の演技への備えをするとか、相手役の動きに対しての反応を用意するとか、自分の内側から沸き上がってくるモノに集中するとか、それは様々ですが、落語には、物理的にそんなヒマは無いのです。落語では、落語家に、常に役中人物としての意識の連続性が求められます。

・その上で、落語家には多面的、多角的な意識活動が必要なのです。

・こんなことが実際、可能でしょうか。

・思考はおよそ、言語を媒介にして展開していくモノですが、それだけでは、この場合、不十分なのは明らかです。きっと、落語家には、言語によらない、巧みな表象能力を備える必要があると、思われます。

・表象能力とは「思い浮かべる力」と説明されますが、落語では単に表象するだけに停まらず、その表象が、演技の進む道を、描いていかなければなりません。

・落語家は常に、一歩も二歩も先の、自ら歩く道を、自ら、描いて歩んでいくのです。

・それを可能にするためにも、言語に呪縛された意識の下に、作品の種の全てを埋めてしまうことが必要でしょう。

・そして、落語家は、その種を、高座の上で、芽吹かせ、花を咲かせるのです。

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