落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2015年9月10日木曜日

自分化

井戸の茶碗はコミュニケーションの話ともいえます。

コミュニケーション を考えると、伝達とか交流とかばかりでないような気がします。
サッカーでも「監督の手足となる選手」、「アイコンタクトでのプレー」などとコミュニケーションが語られます。.
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「他人を自分にする」、「自分化」とでも言ったらいいのでしょうか。自分の延長として他人がある。いや、もはや他人では無く、そこまで自分が広がった存在となること。

渡り鳥の編隊飛行や小魚の大きな群れは、本人は意識しているかは解りませんが、個体の動きが群れ全体を意識しているとしか考えられません。明らかに群れは大きな一つの個体となっています。

人のために生きたり、生き物のために生きたりできるのも、「自分化」しているからでは無いでしょうか。ですから、それが生きてくれれば、もう自分自身の存在に価値は無くなり、「たとえ火の中水の中」と命をかけられるのでしょう。

二者がいて、お互いに「自分化」ができれば、それこそ真の「個体」となるのかもしれません。

そんなこと無理だって❗️

なんて個っ体❗️


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