落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2009年8月26日水曜日

記号学

久しぶりの稽古でした。
またまた課題の坂道が現れました。

師匠の落語「一目上がり」が掲載された
中学の教科書を頂きました。
「落語を演じよう」という
タイトルが付いています。
さて、中学校の先生は
この教材をどう料理するのでしょうか。
これを読む中学生達と先生に
師匠の落語を生で聞いてもらいたい
ものだと思いました。

「その作家はね、売れない頃は
鮭を売ってたんだよ。」
「サーモン文士ってわけですね。」
うまいこと言うねと
師匠に珍しく褒められたので、
記念に書き留めておきます。

話を戻して、なぜそう思ったのか
の訳ですが。
ここで、少しく
落語と現実あるいは虚構との関係を
整理しておきたいと思います。

結論から申せば、
落語は
現実あるいは虚構の代わりではない
ということです。

その理由として、
フェルディナン・ド・ソシュールの
記号学を引き合いに出しますと、
そこには、
「記号とは記号表現と記号内容の
統一体である。」、
「記号とは意味するところのものである。」
とあります。
つまり、「記号は何物の代理ではない」
ということなんですが。

そこで、落語を記号として考えると、
落語は現実あるいは虚構
の表象としてあるからこそ、
落語は現実あるいは虚構
そのものではなく、
落語という記号なんだということです。

ですから、
師匠の落語はそれ自体、
そのものにこそ意味があり、
他の人が演じても、
ましてや、活字になったものなど、
全く師匠の落語としての意味をなさない
と言っていいと思うのです。

今日の創作都々逸#21
♪あれこれ言葉で 迷うじゃないよ
惚れりゃ声で わかるもの

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