落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2009年9月6日日曜日

落語は心の2

昨日の続きで退屈だと思いますが、
今しばらくおつきあい
いただければ幸いです。

心を構築している要素の主役は
記憶と記憶の持つ関係性だと仮定して、
落語の表現を考えたときに、
この記憶と記憶の持つ関係性とで、
落語が成り立つというところから、
落語は「心」の表現であって、
「落語は心そのもの」なんだと
言いました。

ここでは、その中の、
「落語の表現を考えたときに、
この記憶と記憶の持つ関係性とで、
落語が成り立つというところ」
の話をしたいと思います。

そもそも、
落語は一人芝居と違うのです。
そのことは多くの人の言葉にも
あるようです。
ここでは、その違いについての
実例からの考察は
多くの人たちの仕事に委ねるとします。

落語を師匠から、
あるいは他の何ものかから学ぶとき、
それは記憶として残ります。
そして、それは、
その記憶の関係性という情報と共に
残るのですが、この情報は、
師匠やそのほかの何ものかから
得るものではなく、
記憶する本人によって
記憶に付加される情報なのです。

落語は、実はその大部分が、
この記憶する本人によって
記憶に付加される情報、
すなわち記憶の関係性から
出来ているのです。

そのことがいわゆる
登場人物を演じる事を目的とする
一人芝居と大きく異なる
ところなのです。

落語は同じ話でも
演者によって全く違うものになります。
芝居で役者が変わる以上に
落語は演者が変わると
噺自体が別物と言っていいほど
変わります。

それは、演劇における台本のような
台詞や筋書きという部分が、
落語全体の中で
いかに小さなものであるかを
物語っています。

落語のもっとも大きな部分、
それは正に
演者自身の心なのです。

一人芝居は、
登場人物が役者を借りて
語るものですが、
落語は
演者の心が登場人物を借りて
語るものなのです。

と、思います。

落語の善し悪しはきっと、
そこに心があるかないか
ということなのかもしれません。

今日の創作都々逸#30

言葉なくとも その目でわかる
黙ってオレに ついてこい

(言ってみたいな そんなこと)

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