落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2010年10月26日火曜日

RAKUGO人生



三笑亭笑三さんの、絶版の、
「RAKUGO人生」を購入した。
1988年出版のものだ。

驚いた。
なぜなら、その中の言葉の一つ一つが
ボクにとっては発見だからだ。

とりあえず、今日はその13頁、
「相手を意識する」
そして、15頁、
「言うと話すは違う」
を読んで、
発見したことを書いておきたい。

( ちょっと理屈っぽくなるけど、
大したことは言ってないので、
軽く流して下さい。)

まず、
その前に、
コミュニケーションには
言語コミュニケーション
(バーバルコミュニケーション)と
非言語コミュニケーション
ノンバーバルコミュニケーション)とがある。
落語においては、
非言語コミュニケーションの
ひとつの例が「所作」である。

それでは、
さて、「RAKUGO人生」では
落語はコミュニケーションであると説く。
「言う」のではなく、
相手を意識して相手に「話す」のだと説く。

そこで発見したのだ。

まず、
落語の中で、
ご隠居が熊公と話しているのは
ご隠居と熊公とのコミュニケーションに
ほかならない。

では、
そこでの、
その落語とお客との
コミュニケーションは
どこにあるのだろうか。

それこそ、
多くは
非言語コミュニケーションにあるのだと。
それは
確かに
台詞はご隠居と熊公との間に
交わされているものだが、

二人の感情という情報は
お客に向かって発信されているのだ。

また、
お客は息づかいや笑い声で、
落語に向かって気分の情報を発信している。
これは非言語コミュニケーションである。

つまり、
お客の非言語コミュニケーションに対して、
落語は同様の非言語コミュニケーションを
言語コミュニケーションで補いながら
伝えているといって良いだろう。

だから、落語において大切なのは
言葉の言語コミュニケーションよりも、
その感情とか気持ちとか
柳家一門なら了見とかと言われるものなのだ。

しかし、その非言語コミュニケーションの
多くは所作ではない。
なぜなら、
ほとんど動かない話もあるのだから。

では、その非言語コミュニケーションを
司っているものはなんだろう。

もう、気づかれた方も
いらっしゃると思いますが、

そうです、
「表情」。

ここでの
「表情」とは外的心象と内的心象とを
併せ持つものとしての意味。

すなわち、
落語の言葉は
この「表情」を説いているものにほかならない。

それでは
この「表情」をどうやって
落語の中に盛り込んでいくのか。

実はその
簡単かもしれない方法を
発見したのだが、
それは明日ということで。

0 件のコメント:

コメントを投稿