落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2010年10月31日日曜日

落語の「心」


誰かにくすぐられると
笑ってしまう。
でも、
同じように自分でくすぐっても
平気だ。

なにが違うのか。
皮膚への刺激がほぼ同じだと
仮定すると、
違うのは刺激に対する
精神状態である。

それは
思うに、
予測とは違う刺激が
生じることで、
精神の平衡が揺らぎ、
それを戻そうとする反応として、
笑うのではないか、な。

ボクは北海道生まれなので、
雪道でよく転んだ。
いや、これでは北海道生まれだと
転ぶみたいなことになってしまい、
はなはだ北海道生まれの方に失礼であるので。
そうではなくて、
北海道の冬の道路は、
凍結といって、
雪道という名の氷の道なのだ。

その氷の上に薄く雪が積もると、
そりゃあもう、
滑って転んで下さいという道になる。

で、実によく転んだ。
それも、何の予告もなく、
いきなり転ぶのだ。

予告なくというのは
スノーボードをやられている方なら
ご理解いただけると思うが、
緩斜面で、逆エッジをとられて転ぶ時の
タイミングなのだ。

これはもう、
痛いと言うより可笑しくて。
だから、必ず、
起き上がりながら、
着いた雪を払いながら、
笑ってしまう。

これはボクだけじゃないのだ。
ボクが見た数多くの転倒者が、
皆同じく笑った。

この笑いは何かと考えると、
これは
先の平衡を戻すための笑い
なのではないかと思える。

そこで
落語の「心」がどこにあるか
という問題だ。

どうやら
この平衡を崩すところに、
落語の「心」があるような
気がしてならない。

すると、
その平衡とはお客さんの精神のことであるし、
崩すのは落語家であるわけだから。

落語の「心」は両者の間に存在するモノとなる。

そのモノとは。

実はそれは
一言で言えるモノかもしれない、
それは、

また明日に。

      

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