落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2010年11月11日木曜日

技の第二



「伝える技」というと
「どのように伝えるか」という事のように
思うが、
落語では、
「どのように伝えるか」の前に、
「何を伝えるか」という問題がある。

その「何」を
どう選んでゆくのか、
そこに落語家の「技」がある
と言えると思うのだが。

「技の第二」はこの
「何」
ということで。

一昨年亡くなられた哲学者渡邊二郎先生
「しあわせ」には3つあるとおっしゃった。
一つは命にかかわる、安全な事のしあわせ。
もう一つは生き甲斐を持てる事のしあわせ。
そして三つ目は、とつぜん降りかかる至福がある事のしあわせ。

いやいや、
こんな簡単なまとめ方をしては
先生に大変失礼だと思うのだが、
私の力ではここまでで精一杯なもので、
なにとぞお許しを。

この三つ目の「降りかかる至福」にあたるものが、
落語の
「何」
ではないだろうか、と思う。

二代目中村吉右衛門さんの
「歌舞伎役者が演れば歌舞伎です」
という言葉をテレビで聞いたことがあるが、

それならば
「落語家が演れば落語」なんだろうか。

いいや、
そうとは限らない
と思うのは

「落語」は
落語家が選んだ
「何」によって
至福を降りかけられてはじめて
それは「落語」と言えると思うから。

つまり、至福のない話は
もはや「落語」ではないと思う。

ここまでくると、
「落語と笑い」という、
避けては通れない問題を
考えなければならないのだが、

そのことは
「何」をどのように選ぶかという問題と
表裏の関係にあると思われるので、

またまた
踏み込んで考えてみようと思うが。

それはまた明日。

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