落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2011年12月30日金曜日

ペロ


 27日に旧知の犬が亡くなった。
飼い親様のお心遣いで、お骨になった日に連絡をいただいた。
落語草に書くことではないとは思うが、素敵な時間を与えてくれた彼にせめてものお礼に書き留めておきたい。
 彼がまだまだ子犬だった頃、といっても、すでに食べ過ぎの柴犬くらいの大きさだった頃、お取り込みのために数日預かったことがあった。その頃は小さな四駆に乗っていたこともあって、お散歩をどこか遠くにドライブして、と考えた。その時、そうだ、海辺に行こうと思ったのは、彼がゴールデンレトリーバーだったことと、とてもいいお天気だったことと。そして、海を見せたら、いやきっと、彼にはおそらく初めてだろうから、驚いて、喜んで、飛び上がって、どうかなっちゃうだろうと思ったから。レトリーバーは鴨猟とかで鳥をレトリーブするのが仕事だったらしく、水遊びが大好きだと、何かで知っていたから、それはそれは、きっと喜ぶと思った。ところが、どうしたことだろう、お台場の海浜公園の砂浜に連れて行くと、キョトンとして、ボクの傍を離れようとしないばかりか、波打ち際に行っても、なかなか水に触れようとしない、こっちが入ってバシャバシャしてみて、やっと、おそるおそる片足をつけるといったありさまだ。
 しばらくは、砂の上を走ってばかりで、「水遊びなんてやだよ」といった顔、ところが、持って行った太いロープの両端を玉結びにしたおもちゃを投げて遊んでいる内に、何かの拍子にそのおもちゃが水に落ちると、バシャバシャと勢いよく水に入っていって、見事にくわえてきた。やっと、自分がレトリーバーだということに気づいたらしい。そして、さんざん遊んで、日が傾いた頃、ボクは、まさか海に入れて泳がしたなんて返しに行って言えないし、塩と砂で全身バリバリドロドロなので、なんとか洗って、乾かして、知らん顔して帰った、なんてことがあったのは、もう14年も前のことだ。

 よくボクは犬に「いい子」と言う。それは自分を一番大切に思ってくれるヒトだとボクを思ってくれていると思うから。

 「親子の関係」とは「最も大切に思う関係」だとすると、それはヒトの中ばかりにあるモノではないと思う。宗教、哲学のいずれもがヒトの幸福を求めては、ヒトの世界の枠の中で考えてきたように思う。だが、現代のヒトの幸福には、ヒトの世界を取り囲む世界までをも枠を広げなければ捉えられない幸福がある。
 少なくとも14年前のお台場にはそれがあった。

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