落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2014年11月4日火曜日

「めぐり逢い」のケーリー・グラントに思う

『めぐり逢い』(An Affair to Remember)は、1957年制作のアメリカ映画です。主演はケーリー・グラントとデボラ・カーです。お話はプレイボーイの画家ニッキー(ケーリー・グラント)がオーシャン・ライナー乗船中にテリー(デボラ・カー)と出会うことから始まります。お互いにすでに婚約者がいながらも、恋に落ちる二人。6か月後にエンパイア・ステート・ビルディングでの再会を約束して二人は別れます。
婚約者と別れ、約束の日、ニッキーはエンパイア・ステート・ビルディングに向かい、閉館までテリーを待ち続けますが、テリーは現れません。実はテリーは約束の場所に急ぐ途中で交通事故に遭ってしまったのです。
テリーの怪我の状態は深刻で、この先車椅子での生活を余儀なくされることになります。ニッキーの重荷となりたくないと思ったテリーはニッキーとの再会を諦めます。そして、いろいろあって、クリスマスの日、ついに再会を果たすのですが、その時のケーリー・グラントの演技が素晴らしいのです。

ある日テリーを想って書いた絵を車いすのご婦人が購入したと画廊の主人に聞かされていたニッキーは長椅子に横たわるテリーがその夫人であることに気づき、次の間の扉を開きます。アメリカは扉が内開きなので、正面に飾ってあるその絵が幕を落とされたように現れます。日本は外開きが多いのでなかなかこうはいきません。

ケーリー・グラントはそのとき、開ききったその扉に背中を預けて、総てを理解して絵を見つめ、次に、自らを恥じるように下を向いて置き所のない気持ちを見せ、テリーの愛を確かめるようにもう一度絵を見つめ、そして込み上げる涙をこぼさないようにするかのように目を閉じます。

ぼくが言うのもおこがましいのですが、これこそ涙なしには見られない感動の場面です。

・このケーリー・グラントの演技は自分の感情に浸る事を能動的に演じた見事な例と言えると思います。
ときおり、この場面のような、受動的に感情を表現する演技が求められることがあります。
そんなとき、観客に感動が伝わらないことがあります。
その原因を考えてみると、そのひとつに、演者が自分自身の感情に浸ってしまい、また、それこそがよい演技だと勘違いしているということがあるように思います。

・役中人物の受動的な心の動きを、役者の能動的な行動で表現することこそが感動を観客に伝える術なのではないでしょうか。
役者が感動していることだけでその感動を観客に伝えるのは難しいと思います。
感動を観客に伝えるためには、役者自らが役中人物の感動に浸らないようにすることが大切でしょう。
感情に浸っていたのでは、思うように動けないばかりか、ときには、まさに感情に溺れかねません。
それは感動を観客に伝えるどころか、観客から見れば白けた滑稽さにしか映らないかもしれません。

・落語の人情話などで陥りがちな、ときとして、観客が覚える、見るに堪えないあの気恥ずかしさの理由はまさに、この内的感情を外的表現に置き換えることの失敗にあると思います。
また、それが成功している演技こそが素晴らしい演技なのだと思います。

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