落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2014年11月25日火曜日

ご飯を炊いて

どうも何かをやっていると、他の事を忘れてしまうタチで。いつかも、鍋でご飯を炊いている事を、すっかり忘れてしまったのです。ボクの炊き方は簡単で、まず、鍋の蓋はしないで強火にかけます。そして、沸騰して、蓋をしても吹きこぼれないくらいに水の量が減ってきたら、弱火にして蓋をします。後は、蓋と鍋の隙間からの蒸気がほとんど出なくなったら、火を止めて、しばらく待ってかき混ぜて、出来上がりです。

・気がついて、慌てて鍋を見るとほとんど水が無くなっていました。かろうじて鍋縁に白い泡が立っているくらいです。仕方なく、蓋をして、焦げてはいけないと思い、極々トロ火にしました。すると、いつもより短時間で、蓋と鍋の隙間からの蒸気は出なくなりました。そこで、おそるおそる蓋を開けてみると、「おおー」、なんと見事に炊けているではありませんか。いわゆる「めっこ飯」(北海道では「芯の残っているご飯」のことを言います)にはなっていません。それどころか、実にしっかりと、堅く炊きあがっています。カレーにするにはもってこいでした。

・このとき、ボクは新しいご飯の炊き方を発見したのです。そう、これはまさに実験でした。実験でボクは新発見をしました。そして、カレーがさらに美味しくなりました。

・ああ、「お店で無くて良かった」と思いました。なぜって、お店だったらこのご飯は出せませんから。それは、お客さんは、「いつもの」を、食べに来ているのでしょうから、当たり前といえば当たり前ですね。

・タクシーに乗ったとき、まさか、運転手さんが気分が良いから景色を見たいと、気紛れに遠回りされたんでは、困ってしまいます。タクシーに乗ったら、当たり前ですが、いつもの「道」を走ってもらいたいものです。たとえ、途中で通行止めになっていても、それなりに無難な「道」を走ってもらいたいものです。ましてや、ちゃんと目的地に着かないなどは、論外でしょうね。

・次回の「芝浜」ばかりでなく、落語の多くは「不条理」を抱えています。しかし、それも「落語」の確かな構成要素の一つなんです。

・でも、ときおり、プロの落語家が自らの解釈で、その構成要素を替えてしまうことがあります。それが、ときどき、「新しい」と思われていることもあるようですね。

・しかし、この、落語の構成要素こそが、タクシーの走る「道」にあたるんです。ですから、「落ち」を替えるなどは、まさに、目的地に着かないのと同じことでしょうね。

・プロの落語家が「何故師匠にあげて貰わないと演じられないのか」、という理由が、まさに、そこにあります。そうなんです、プロはお客さんが期待しているモノを提供する義務があるんです。お客さんは期待に応えてくれるモノと信じて、落語を見る前に木戸銭を払いますね。落語家は、その信頼の対価として木戸銭を受け取っているんです。ですから、当然、期待した内容で無ければ、プロとして仕事をしたとは言えないでしょうね。

・それだから、プロの落語は伝承芸なんですね。息子が後を継いだからといって、カレー屋さんに入ったらラーメンが出てきたのでは困るんです。いつものカレーとまではいかなくても、カレーでなくては困っちゃいます。

・「新しい」とか「試みに」とか「前衛的」とか「実験的」とかの落語もあるでしょう。でも、それは、プロの落語家がやるときには、そうゆうものをやりますよと、きちんと「銘」を打ってお客さんから料金を集めることが必要でしょうね。

・「探求」や「研究」の実験を高座でやっていいのは素人だけ、じゃないでしょうか。

・でも、ご飯を炊いた時のように、「新しい」は「実験」から生まれるんです。

・「実験」はやらないけど、「新しい」を見つけたい。このジレンマの中で、プロの落語家は「新しさ」を作品に吹き込まなければならないから大変です。

・なぜって、今現在は、継承した「過去の芸」の生きていた時代では無いんです。風俗を描く落語に、現代の風俗精神の変化を反映させることは必須でしょうね。だって、「あらっ」とか「おやおや」とか思われるようでは、高座とお客さんとの一体化なんて出来るわけが無いでしょうから。

・でも、それを勘違いして、高座で「実験」してしまうプロの落語家が実にいっぱいいるように思えます。

・そして、そんな落語に遭遇するたびに、現代的な「新しさ」を、お客さんに「へつらう」意識から表現しているようにも思えて仕方ありません。

・古今亭志ん朝さんが、よく、「アマチュア精神を忘れるな」と仰ったと、本で読みました。その御言葉の深い意味を、今、落語に携わる全ての人々にかみしめて欲しいなぁ、と思っちゃいます。

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