落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2015年10月29日木曜日

自分の形と大きさ


「宇宙はどこまで?」
小学4年の夏、星空を見上げては、そう考えて気持ち悪くなりました。

知っているところまでが「自分の宇宙」なんだと気づくのにずいぶんかかりました。
宇宙は膨張しているそうですが、「自分の宇宙」も膨張しています。
「知る喜び」、「体を動かす楽しさ」、「創り出したときの嬉しさ」は自分が広がっているなぁとか、自分が延びているなぁとか、自分の膨張を実感します。

するとこんどは「自分とは?」と考えて、またまた気持ち悪くなりました。

そこでちょっと整理してみたいと思います。

自分を考えるのですから、まずは自分の形と大きさから考えてみましょう。

ラジコンの車を動かしているとき、その車は自分でしょうか。
車に乗って運転しているとき、その車は自分でしょうか。
触れていても、離れていても、自分の意思が伝われば、それは自分でしょうか。
思うようにドラムを叩けない、自分の意思が伝わらない、この二本の腕は自分でしょうか。
切った髪の毛、切った爪、それは自分でしょうか。
体から排出される物たち、それは自分でしょうか。
遺伝子が存在すれば、離れていても、それは自分でしょうか。

自分と自分以外の物との境界は皮膚、細胞膜、ざっくりと油なんでしょうか。
皮膚に浸透した化粧品なども、境界の内側にあれば、それは自分でしょうか。

数千匹の鰯の群れが巨大な魚の形を作ります。ゆっくりと動く巨大な「群れ」の中で、鰯の「自分」はもはや「群れ」そのものになってるのかもしれません。

ラグビーで戦うとき、「自分」は「チーム」の意思で存在します。即ち「チーム」そのものです。
運命を共にする集団の一員になるとき、「自分」は「集団」の意思で存在します。即ち「集団」そのものです。

飛行機に乗り込めば、飛行機の墜落は、即ち自分の死を意味します。飛行機は生死を共にする集団で、まさに自分は飛行機そのものです。

こう考えていくと、自分というものは、形も大きさも、全くボンヤリとした曖昧な物だと言うことができます。


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