落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2021年3月29日月曜日

【 落語の雑則 57】 声を張らない

「男一匹ガキ大将」

「明日のジョー」

中学生の頃

ケンカがかっこいいと

ワルに憧れた


結局は

童顔過ぎて

その道は諦めたのだが


ケンカのやり方は

ずいぶんと友達と学んだ


そのひとつが

腕を伸び切らして殴らない


こんな事を思い出したのも

声を張って

がんばって喋っていると

自分は

やってる感まんまんだが

明らかに

芸が伝わっていない

と思う事があるから


伸びきった拳に力は無い


張り切った声にも

力は無いのかもしれない


中学生の頃の遊びに

プロレスごっこがあった

コブラツイスト

四の字固め

テレビで見た大技を

痛くないように

気をつけながら

笑いながら

かけ合う

ところが

それが

思いのほか

あっさり

出来てしまって

驚いたものだった


今にして見れば

あたりまえだが

ごっこだからに他ならない


おっと


もしかしたら

この

ごっこがいい技を見せるコツ

なのかもしれない


うむ


真剣勝負で落語をしない

ごっこで落語をする


声を張り切って落語をしない

余裕ある声量で落語をする


そうか


ごっこだと思えば

勝ち負けではない

楽しいかどうかである


ごっこ遊びの余裕で語る


そんな落語を追求したい




2021年3月28日日曜日

3月27日の誕生日に

誕生日には

ドップラー効果がある

近づいてくるにつれ

「いやだな」感はどんどん高まるが

過ぎてしまえば

「あぁあ」と直ぐに消えていく


こんなふうに

誕生日にワクワクしなくなったのは

いつの頃からだろう


そうだな

きっと

マンガにワクワクしなくなった頃からの様な気がする


マンガは

ハッキリと直感的

激しく感情的

陸上競技なら短距離走


それに対して

現実は

ハッキリと直感できるような

刺激は少なく

感情的な激しさもなく

平穏な毎日が続く

そう

陸上競技なら長距離走


だから

今では

誕生日は

淡々とした毎日の

通過点の標識のようなもの


目標でも無ければ

もちろん

ゴールでもない


だが

生を受けたことに

親に

この世に

ありがとう

感謝の気持ちを確認する

そんな日だから

誕生日は

区切りの日である

ならば

区切られた以前が

スッと

消え去るのは当然か


そうか

誕生日から誕生日まで

この標識から次の標識までの

短距離走として

毎日を走ることが出来れば


次の誕生日には

きっと

ワクワクできるだろう


---


3月27日は

年度末でもあるからね

決算してみよう


あはは

おやおや

こりゃ大幅黒字です


それもこれも

みんなみんなのおかげです

ほんとうに

ありがとうございます


また引き続き

ご贔屓のほど

よろしくおねがいいたします



2021年3月25日木曜日

【 落語の雑則 56】 徐々にお客と眼を合わせない

落語家は落語世界への案内人

案内人は景観に入らない

景観を紹介するだけ


けれど

案内人に馴染めないと

紹介を聴く気にならない


だから

はじめは

しっかりお客と目を合わせて

よろしくと伝える


しかし

それが済んだら

徐々に視線をずらし

話に入った頃には

視線は

すっかりお客の頭の上を

撫でている

子供に話しかける場面など

視線を下げる時には

できる限り

目を合わせない


これは

客の前から

姿を消すため


目を合わせた瞬間

落語家は己の姿を現す


オチの後

拍手の中

スッと

落語家としての姿を現す


そんな落語を探求したい




2021年3月14日日曜日

【 落語の雑則 55】 奥行きを意識する

話に「引き込まれる」という

どこに?


それは

落語家の向こう側

それが奥


上手いけど

滑らかだけど

演技はできてるけど


つまらないのはなぜ


それは

引き込まれないから


平板な

スクリーンのような

圧力だけを感じるような


そこに無いのは

奥行き


奥行きは作るもの

では

どのようにして

作るのか


そのための力は

押す圧力では無く

引く吸引力


奥行きは

引きで作る


では

どこに引くのか


それは

自分の中に引く



どうしたら

引けるのか



それは

話をなぞらないで

紡ぎ出す


なぞるのは上辺

紡ぎ出すのは

自分の奥から


そう


奥行きは

自ら

紡ぎ出して

話すことで作られる


お客が

湧き出てくるのは

どこからと

思わず

覗き込み


ぐいぐいと引き込まれてしまう


そんな落語を追求したい


2021年3月9日火曜日

第114回志ん諒の会チラシ


 

2021年3月8日月曜日

【 落語の雑則 54】 感覚を刺激する

大地は共振するらしい


地中で爆発を繰り返すと

共振した大地が

いつか割れると

考えた科学者がいた


人も共振する

それは落語会の笑い


次第に

笑いの振幅が

大きくなっていく


落語は思考を

刺激するけれど


笑いを振動と捉えるなら

思考が振動している

のでは無く

感覚が振動している

のではないか


例えれば

それは恋の様


恋は思考では無く

感覚


いくら考えても

恋のときめきは

抑えられない


どうしたら

そんな感覚を

刺激できるのか


ならば

抑えられないような

笑いこそが

落語に求められるべき

笑いであろう


どうしたら

そんな笑いを

刺激できるのか


そんな悩みは共振する


いつか

大地のように

悩みが割れ

やり方が

ハッキリ見え


そこから

笑いが噴き出てくる


そんな落語を追求したい


2021年3月7日日曜日

【 落語の雑則 53】 笑い声を丁寧に拾う

お客は笑い声で応える

笑い声に反応する事は

お客と落語することに他ならない


ではどのように

お客の笑い声に応えるのか

それは間で応えるだけでいい


話を壊してまで応えることは

ケレンに走ることになってしまう

ケレンがよくないのではなく

話が途切れてしまうことが

落語としてどうなのか


笑い声と間の呼応関係

それは

落語の理想形かもしれない


動画配信は落語を聴く新しい形である

しかし

それはもはや落語では無い


それは冷凍した野菜の味

それはそれで美味しいのだけれど

やはり冷凍した物は

冷凍した物の味なのである。


そこに笑い声と間との呼応関係は無い

冷凍野菜なら

見ているだけで

味わえない状態である


もちろんお客は

そうやって

味わっている事を

想像して楽しむのもいいだろう


けれど

落語家は

それでは

腕は磨かれない


笑い声は

例えれば

ブランコの様なもの

はじめは小さな揺れも

ささやかな間の力で

押し続ければ

いつしか

爆笑と喝采の落ちとなる


そんな落語を追究したい



2021年3月5日金曜日

【 落語の雑則 52】 当たり前を作る

 裏にしたトランプの山を一枚ずつめくって色を見る


一枚目は黒いカード

二枚目も黒いカード

三枚目も黒いカード

四枚目も黒いカード


そして五枚目に赤いカードが出る


いつかは赤いカードがでると分かっていても「おっ」と思う


 たいてい次も同じ事が起こるだろうと思いがちである

だって、黒が出ていることは記憶にあって、赤が出た事は記憶にないから


記憶をたよりに黒がでることが「あたりまえ」になる


 「あたりまえ」になったあたりで赤いカードが出てくると「おっ」となるわけである


 意外性の出現が笑いを生む。


 落語では赤いカードこそが笑いを生むと考えがち


でもいきなり赤いカードを出して「おっ」となるだろうか


「あたりまえ」があってはじめて赤いカードが生きるもの


 黒いカードが続くことに笑いはない

それを別の要素で笑いを作りながら黒いカードが続くことを「あたりまえ」にしていく


 落語で難しいのはこの黒いカードで「あたりまえ」を作っていく事


楽しく当たり前がてきあがる話


そんな落語を追究したい


2021年3月3日水曜日

【 落語の雑則 51】 登場人物は皆自分自身

スタニスラフスキーは

「俳優の仕事」第三部で

演技の客観性を説いている



俳優は演技を自分以外の者の表現として

見られている

 

扮装し表現する俳優が

客観的に見えているのは登場人物である


対して


扮装せず表現する落語家が

客観的に見えているのは落語家である


落語家は演技を自分自身の表現として

見られている


だから


落語家の演技は俳優の演技と違う


それは


俳優はそこに自分以外の者を見せるが

落語家はそこに自分の中の一面を見せるからである


なので


落語の登場人物は全て自分の中のある一面の姿である


ならば


落語の演技を磨くとは

自分の中の様々な面を見極め

それらを一つ一つ磨きあげることに

他ならないだろう


落語を通して自分を知る

気付かなかった自分に出会う

新しい自分を表現する


そんな落語を追究したい


【 落語の雑則 50】 吸わない

口で吸うと音が出る

いや

それも味わいとも言えるが

音が出ている間は

話は途切れる

それも味わいとも言えるが

途切れ途切れの話はだれる

さすがに

それは味わいではないだろう


途切れない話

連続感のある話


音が切れない

実際は切れているのだが

音が連続しているように聞こえる


そのために

敢えて音を出して

口で吸う人もいる

けれど

それは反則技

古のプロレスだって

最初から栓抜きで

殴っていたらどうだろう


吸う音を立てないためには

どうすればいいか


今の私の答えは

吸わないことだと思っている

いや

言い換えれば

吸おうとしないこと

吸う意識を持たないこと


しゃべれるだけしゃべって

次の言葉に繋げば

その間に

開いた口と鼻から

空気は瞬時に入る


しゃべることに

集中して

息を吸うなんて忘れてしまう


志ん朝さんの長台詞

どこで息を吸っているんだろうと

不思議だった

それが吸っていないからだという事に

気が付くまでにずいぶんかかった


吸わないことで途切れさせない

吸わないことで雑音を立てない


流れる言葉に興味尽きない心地よさ


そんな落語を追求したい



2021年3月2日火曜日

【 落語の雑則 49】 届く声でささやく

ささやき声で

「ねえねえ、こんなことあったんだよ」と耳打ちするような話

それを多くのお客さんに届ける芸


言葉の機微は小声だから出るもの

ささやきはあくまで小声

大声では伝わらないばかりか耳を塞がれてしまう


お客さんに伝わる大声で言葉の機微を表現するのは難しい


だからマイクかな


いやいや

近頃の演劇のように

耳から伸びる細い棒に頼る演技では

気持ちが伝わりにくいように

マイク頼りの落語もまた伝わらない


いや、たとえマイクを通した声であったとしても

マイクなしで伝わるだろうと思われる芸だからこそ伝わるのだろう


自分の周り1m、いや、30cmの芸ではアップで切り取った動画ですら芸の小ささが露呈する


演劇はもっとだろうが、少なくとも芸が10mは届いて落語と言えるのではないか


10m先にささやくように話す芸


そんな落語を追求したい