落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2010年2月9日火曜日

明烏の梅干し

古典落語が描く「時分」とは、ほっとする「時分」である。
いや、元禄、文化、明治とそりゃぁ色々と、そこにはそれなりの不安要素があったはずだ。しかし、そんな不安要素など忘れられてしまっている中で話しは描かれる。

一月に父を癌で亡くした事もあって、病について考える日々があった。そんな中で、病を忘れる事が病と共に生きる事だと知った。忘れながら生きることは、気にしながら生きることより遙かに難しいのだが。父は死ぬまで生きていた。

「明烏」、この話をしていると、大きな不安から離れた所にいる人々の、ささやかな不安に安心する。 そんな人たちの傍らにいる事で、ちよっといい気分になる。

話が終わると、もちろん現実に引き戻されるのだが、気分は大きな不安から離れた人たちのそれだ。しかも、どうやら、ボクは時次郎じゃなくって、太助の気分になっている。梅干しに砂糖を付けて食べてみるかな。

ボクは北海道生まれ。北海道では茹でたジャガイモに砂糖を付けて食べたり、納豆に砂糖を入れたりと、砂糖には馴染んでいる。だが、いままで梅干しに砂糖を付けて食べたことはない。志ん朝さんの太助が食べた梅干しがどんな梅干しなのか。やはり、口がキューッと小さくなるような、しょっぱい梅干しではないかと思う。

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