落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2010年11月21日日曜日

やりきること


シルバニアファミリーの
愛らしい姿を楽しみにして
いらした方には大変申し訳ないのですが、
今日は、
是非、ガマンしていただいて、
この一文をお読みいただきたく思います。
忘れないうちに書いておきたいからです。

それは、
先日の稽古で気づいたことなのですが、
落語をやっていく上で、
最も大切にする事は何かという問題です。

いきなり、大きな問題ですが、
今日はそれを
品質機能展開(QFD : Quality Function Deployment)
を用いて考えてみたいと思います。

上図がそれです。
空欄部分にはいろいろと
書き込んでいくものと考えて下さい。
上部の三角形の部分は
「話し手の技」どうしの関係の中から
その両方に通じる「技」を考えていく部分です。
結果、最上部の赤く塗った部分に
最も大切にしなければならないモノが
見えてくるというしかけです。
QFD本来の使い方ではないと思いますが、
落語の本質を考える上で
よいものと考えました。

つまり、
「お客さんの要求」のそれぞれに対して
「話手の技」のひとつひとつが対応するなかで、
その「技」を集約した「技」が
図の赤く塗った部分に当たるわけです。

もちろん、「背反特性」を持つような、
互いに反する「技」もありますが、
それをも包含するような集約した「技」として
最も大切なモノがあるように思います。
では、
赤く塗った部分に当たる「技」とは何でしょうか。

今、それをボクは「やる」事だと思います。
すなわち、
落語として成り立つ「話」を「やる」事です。

具体的には、
自分の中で納得いかなくとも、
言葉が出てこなくても、
頭の中が真っ白になったとしても、
落語を「やりきる」事だと思うのです。

それは、落語は「お客さんの要求」の上にあるモノだからだと思うからです。
八代目桂文楽さんの逸話は有名ですが、
言葉に詰まって高座を降りるのも
文楽さんの「技」の一つと言えると思います。
それは文楽さんが
文楽さんに対する「お客さんの要求」をある意味で満足させているからです。

しかし、一般には、
高座の上で、独りよがりな稽古をしては
「お客さんの要求」を満たしているとは
言えないと思います。

以前、三遊亭とん馬師匠が
「出来ないと思うなら高座に上がらなきゃいい、
上がった限りはやれ」
と仰っていたのはまさに、
「やる」事がすなわち
「お客さんの要求」を満たすことの基本である事を
示していたのだと思うのです。

原稿や台詞に囚われすぎている様子を見るにつけ、
芝居じゃないんだ、落語なんだと思うのです。
落語は、お客さんに向かって、
落語の作者の心情を表現するモノではなく、
話手の心情を表現するものだと思うのですが、
いかがでしょうか。

明日はシルバニアファミリーに登場してもらいたいと思っています。
それではまた明日。

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