落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2010年12月29日水曜日

押し引き

「ちょうどその頃湯島天神の境内では
富の当日でございまして
鳥居をくぐって中に入るってえともう大変な人で
まるで年に一度のお祭りのような騒ぎ」





「押し引き」という言葉があります。
掛け合いの押し引きとか、
カメラの押し引きとか、
麻雀の押し引きとか、
いずれも、攻める方とそうではない方の対比です。

これを意識すると、落語がさらに
立体的になるようです。

「宿屋の富」では、
宿屋のアルジが客の話を聞いているときは
「引き」ですが、
富くじを売る段になると「押し」になります。
客はその逆ですから、
その変化をハッキリつけられれば、
さらに良くなると思います。

湯島天神に場面が変わるときも、
「カメラの押し引き」 の意味で「引き」です。
ここでは、情景を俯瞰しているかのように、
雄大に話すことで「引き」から人物へ寄っていく
「押し」を効果的に表現できると思います。

「押し引き」という二元論な捉え方は
乱暴かもしれませんが、
話にメリハリをつける上では
有用だと思いました。

    

2010年12月27日月曜日

落語

笑うことは簡単だ、ただ笑えばいい。
泣くことは簡単だ、ただ泣けばいい。

でも、
笑わないこと、
泣かないことは簡単じゃない。

笑わないでいる自分。
そこにいるのは本当の自分。
泣かないでいる自分。
そこにいるのは偽りの自分。

立ち止まれば涙。
涙をぬぐって走り出す。

だから可笑しい。
だから笑っちゃう。

落語は涙を忘れない。
優しさも温かさも
みんな涙の中にある。



    

2010年12月24日金曜日

宿屋の富2

“富くじ”発祥の地“箕面山瀧安寺”

そういえば
宝くじは今日まででした。
「宿屋の富」では売れ残りが大当たりします。
今日買うと、大当たりするかもしれません。

昨日、「湯島天神の境内の連中の単純さと対比されて」と書きました。
そう捉えておけば、明快なような気がしたのです。
けれど、そこすらも掘り下げていける様な気がしてきました。

そこで今日は、
複雑に心情を捉えることがなぜ大切なのかを整理しておきたいと思います。

感動は「気付く」ところに生じるようです。
同様に「芸術」とよばれるものは「気付く」ことを表現しているように思えます。
よく「芸術は社会を映すモノだ」と言われます。
それは、自分が、
ただ道端の花に心とらわれたとしても、
とらわれるには理由があり、
その理由には必ず社会が関わっていると思うからです。

話の中の人物に、複雑な心情を表現できるならば、多様な「気付き」を見出すことが出来るでしょう。
それは深い可笑しさを生み出す力になると思います。

単純な心情として表現するとき、その登場人物は思考することをせずに、目的意識だけで行動するような人物となってしまいます。
ただ行動を説明するだけとなってしまっては、
それでは情景を表現するのとなんら変わらないモノになってしまいがちです。
これが、ダレ場だと、眠りを誘うようです。
それは、聞く方が思考しないからです。
それは、登場人物が思考していないからにほかなりません。
話の中の人物は常に考え考え考えて進んでいくことがおもしろい話を作っていくことだと思います。

学校の講義で教科書を読んでいるだけの先生を見かけます。その講義は決まって眠い講義です。それは
思考していないからだと思うのです。

複雑な心情は思考しなければ生じませんし、思考していくことで心情は多面性を持ち、その境界で、さらに思考しなければならなくなります。

しかし、話の中で思索に耽るわけにはいきません。
リズムとテンポは大切です。
そこで、複雑とはいいながら、きちんと整理した人物を描く必要があるでしょう。

「宿屋の富」はその実習課題としては最適なモノに思えてきています。

2010年12月23日木曜日

宿屋の富


いよいよ
「宿屋の富」です。
話をご存じない方には
今日の話はなんじゃこりゃだと思います。
ごめんなさい。
知ってるということにして続けさせて下さい。

宿屋の客がひととおり話した後で、
「あー
なけなしの一分取られちゃったよ
人は大きなことをいうもんじゃあねえってのは
全くだね
どこ行ったって
人のこと馬鹿にしやがって
ちょいと脅かしてやろうと思ったら
どういう育ちをしたのかね
少しはうたぐるがいいじゃねえか
引っ込みがつかねえから
言いてえだけ言っちゃったよ
弱っちゃたな
どうもなあ
一文無しになっちゃった
まあいいや
えー
当分の間
あんな大きなこと言っといたんだから
宿銭の催促には来ねえだろう」

と言いますが、
ここをまとめると、

「ちょいと脅かしてやろうと思ったら
ドンドン信じるもんで
引っ込みがつかねえから
言いてえだけ言っちゃったよ」

となります。
つまり、

脅かしてたら大きくなって、
富くじを断れなくなって、
一文無しになっちゃたというわけです。

だから、富くじを買うときは、
切なく、口惜しく、もどかしく、
はがゆく、じれったく、残念な
そんな複雑な形が見えなくちゃいけないはずです。
また、そんな複雑さを楽しんでもらうところでもあります。

この話は、単に宝くじに当たって喜ぶことを味わう話ではないことは言うまでもありません。

この話の何よりの醍醐味は、
宿屋の客のハラハラとした二面性の心情の上で、
その隠している正体が
時折、チラチラと見え隠れするところにあります。

「少しはうたぐるがいいじゃねえか」
と宿屋の客は言っていますけれども、

宿屋のアルジは
「ああさようでございますか
手前どもなんざ一旦入ったお金は
すぐに出てってしまいますが
どんどん増えると言うのは
結構な話でございますな
それはまたどういうわけでございます?」

と、その言葉に
宿屋の客に対する疑いが潜んでいるからこそ、
続く客の話は勢い大袈裟になっていくのでしょう。

さて、ここで宿屋のアルジは宿屋の客が言うように、
ただ疑ることの出来ない正直者なのかという疑問が湧きます。

なぜなら、その時点で、
宿屋のアルジの最大の興味は
宿屋の客がどんな生活をしているかではなく、
売れ残った富の札を
一分という大金で
宿屋の客に売りつけることにあるからです。
ちなみに一分とは
そのころ一ヶ月は生活できたお金です。

宿屋のアルジは富の札を売りたかったから、
作為的に煽るわけではないけれど、
敢えて疑問を挟まずに、
宿屋の客に気持ちよく
ホラを吹かせてやったとは言えないでしょうか。

だから
「えーと、子の千三百六十五番
これこれこれこれこれこれこれ
売ったんだよ客に
当たったら半分の五百両やるよなんてね
世辞でも嬉しいじゃないかな
子の千三百六十五番だ」

という宿屋のアルジの言葉の中に、
「世辞でも」と出てくるのでしょう。
やはり「世辞」として聞いていたのだと思う方が、
宿屋のアルジが普通の人に見えてきます。

宿屋のアルジの二面性は、
その言葉が少ないぶんだけ
表現しにくいです。

この話の難しさは
どうやらそこら辺りにあるようで、
この複雑さが、
湯島天神の境内の連中の単純さと対比されて
さらに際立ってくるというわけで、
ではその湯島天神の境内の連中の
単純さについては
また明日。

2010年12月19日日曜日

日本テレ学院麹町落語塾 笑点収録見学 12.19


森さんの行き届いたおはからい
後楽園ホールでの笑点収録見学。
なるほど、と感心するばかりでした。

集合写真が消えていることに
訝しく思われている方もいらっしゃるかと思います。
日テレ学院麹町落語塾から、
プロの写真を公にするには
事務所の承諾の上で扱いましょうとのことで、
この公というのが実に微妙ですので、
メーリングリストもじゃないとはいえません。
大人のご迷惑をおかけすることになっては
何のためなのかってことになってしまいますし。
というわけで、
今回は集合写真はあの二枚だけですので、
うーん、
よろしくお願いします。

まあ、
「写真なんてえものは犬のあくびぐらいがいいんだよ」
「なんでだい」
「フォットするだろ」
お後がよろしいようで。

2010年12月13日月曜日

月見亭稽古会 12.12

28階スカイラウンジの稽古は爽快な風景を楽しみながら
馬ん咲さん・厩火事
馬ん次さん・代書屋
遊三んさん・三年目
すい馬さん・千早振る
志ん諒・紙入れ・火焔太鼓15分


月島なので月見亭なんてなまえはいかがかなあと、
またまた勝手に呼んでしまいました。


「紙入れ」は綱渡りのようなハラハラ感が出なくちゃと思います。
遙か昔に「タイトロープ」という海外ドラマがあったなあと想い出します。
おとり捜査の捜査官が味わうような感覚が出なくてはと、
そこで、「紙入れ」に「根付」のエピソードを創作してみました。
危うさがうまく出せるといいんですが。

2010年12月7日火曜日

志ん諒の会・第1回・2010.12.5

麹家やん馬・死神
千一亭志ん諒・動物園
ミスターK・マジック
千一亭志ん諒・芝浜
無事、第一回志ん諒の会を終えることが出来ました。
全て皆様の応援の賜物です。
あらためて、心より御礼申し上げます。
ほんとうにありがとうございました。

麹家やん馬・死神
千一亭志ん諒・動物園
ミスターK・マジック
千一亭志ん諒・芝浜


お客様の
たくさんの笑顔と
たくさんの拍手に
会を作り上げた方々の
感慨も一入でした。

次回は年が明けての
3月13日の日曜日です。
また、いい会になりますように。

今日から「宿屋の富」をさらっています。
「二番煎じ」のような群像劇の要素もあり、
「火焔太鼓」のような圧巻も見られ、
「鰻の幇間」のような一人語りや、
「芝浜」のような夫婦の遣り取りもあり、
ここ数ヶ月の稽古のまとめ的な話です。
今年の最後に相応しい話だなあと思いました。

でも、何と言っても、今年は
「芝浜」に始まって、
「芝浜」に終わった年でした。
2010年は忘れられない「芝浜」の年になりました。
ありがとうございました。

2010年12月1日水曜日

落語の舞台を作るモノ


落語の舞台を作るモノ
  

        1.言葉
 
        2.視線 
 
        3.動き


落語には大道具がありません。
そこで、表の3つで大道具を表現します。

以前、お名前を忘れてしまいましたが高名な詩人が、
「詩はいかに詳しく説明するかと言うことです」と仰っていました。
ですが、落語は表の3つを使って、
いかに象徴的に説明するかと言うことだと思います。
削ぎ落とされた美しさを競うのが落語の世界のように思えます。

次回はそのひとつひとつを考えてみます。