落語草 (千一亭志ん諒 落語ブログ)

2014年11月25日火曜日

ご飯を炊いて

どうも何かをやっていると、他の事を忘れてしまうタチで。いつかも、鍋でご飯を炊いている事を、すっかり忘れてしまったのです。ボクの炊き方は簡単で、まず、鍋の蓋はしないで強火にかけます。そして、沸騰して、蓋をしても吹きこぼれないくらいに水の量が減ってきたら、弱火にして蓋をします。後は、蓋と鍋の隙間からの蒸気がほとんど出なくなったら、火を止めて、しばらく待ってかき混ぜて、出来上がりです。

・気がついて、慌てて鍋を見るとほとんど水が無くなっていました。かろうじて鍋縁に白い泡が立っているくらいです。仕方なく、蓋をして、焦げてはいけないと思い、極々トロ火にしました。すると、いつもより短時間で、蓋と鍋の隙間からの蒸気は出なくなりました。そこで、おそるおそる蓋を開けてみると、「おおー」、なんと見事に炊けているではありませんか。いわゆる「めっこ飯」(北海道では「芯の残っているご飯」のことを言います)にはなっていません。それどころか、実にしっかりと、堅く炊きあがっています。カレーにするにはもってこいでした。

・このとき、ボクは新しいご飯の炊き方を発見したのです。そう、これはまさに実験でした。実験でボクは新発見をしました。そして、カレーがさらに美味しくなりました。

・ああ、「お店で無くて良かった」と思いました。なぜって、お店だったらこのご飯は出せませんから。それは、お客さんは、「いつもの」を、食べに来ているのでしょうから、当たり前といえば当たり前ですね。

・タクシーに乗ったとき、まさか、運転手さんが気分が良いから景色を見たいと、気紛れに遠回りされたんでは、困ってしまいます。タクシーに乗ったら、当たり前ですが、いつもの「道」を走ってもらいたいものです。たとえ、途中で通行止めになっていても、それなりに無難な「道」を走ってもらいたいものです。ましてや、ちゃんと目的地に着かないなどは、論外でしょうね。

・次回の「芝浜」ばかりでなく、落語の多くは「不条理」を抱えています。しかし、それも「落語」の確かな構成要素の一つなんです。

・でも、ときおり、プロの落語家が自らの解釈で、その構成要素を替えてしまうことがあります。それが、ときどき、「新しい」と思われていることもあるようですね。

・しかし、この、落語の構成要素こそが、タクシーの走る「道」にあたるんです。ですから、「落ち」を替えるなどは、まさに、目的地に着かないのと同じことでしょうね。

・プロの落語家が「何故師匠にあげて貰わないと演じられないのか」、という理由が、まさに、そこにあります。そうなんです、プロはお客さんが期待しているモノを提供する義務があるんです。お客さんは期待に応えてくれるモノと信じて、落語を見る前に木戸銭を払いますね。落語家は、その信頼の対価として木戸銭を受け取っているんです。ですから、当然、期待した内容で無ければ、プロとして仕事をしたとは言えないでしょうね。

・それだから、プロの落語は伝承芸なんですね。息子が後を継いだからといって、カレー屋さんに入ったらラーメンが出てきたのでは困るんです。いつものカレーとまではいかなくても、カレーでなくては困っちゃいます。

・「新しい」とか「試みに」とか「前衛的」とか「実験的」とかの落語もあるでしょう。でも、それは、プロの落語家がやるときには、そうゆうものをやりますよと、きちんと「銘」を打ってお客さんから料金を集めることが必要でしょうね。

・「探求」や「研究」の実験を高座でやっていいのは素人だけ、じゃないでしょうか。

・でも、ご飯を炊いた時のように、「新しい」は「実験」から生まれるんです。

・「実験」はやらないけど、「新しい」を見つけたい。このジレンマの中で、プロの落語家は「新しさ」を作品に吹き込まなければならないから大変です。

・なぜって、今現在は、継承した「過去の芸」の生きていた時代では無いんです。風俗を描く落語に、現代の風俗精神の変化を反映させることは必須でしょうね。だって、「あらっ」とか「おやおや」とか思われるようでは、高座とお客さんとの一体化なんて出来るわけが無いでしょうから。

・でも、それを勘違いして、高座で「実験」してしまうプロの落語家が実にいっぱいいるように思えます。

・そして、そんな落語に遭遇するたびに、現代的な「新しさ」を、お客さんに「へつらう」意識から表現しているようにも思えて仕方ありません。

・古今亭志ん朝さんが、よく、「アマチュア精神を忘れるな」と仰ったと、本で読みました。その御言葉の深い意味を、今、落語に携わる全ての人々にかみしめて欲しいなぁ、と思っちゃいます。

2014年11月20日木曜日

落語研究14 芝浜2 女房の来歴

勝五郎の女房の父は造り酒屋の次男だった。寛政の改革以降、「下り酒」が江戸に入らなくなってからというもの、酒株を持つ者達はこぞって酒造りに励んだ。父の家は「下らない江戸の酒」の中では、とびっきり美味い酒であった。その頃の酒は度数も糖度も高く、飲みにくいものが多かったのだが、父の酒蔵からは、寒仕込みばかりでなく、四季を通して清流のような呑み心地の、絶品の酒が仕込まれていた。

・女房の祖父は灘の杜氏の息子であったのだから、美味いのも当たり前かもしれない。その長男、女房の父の兄は、否応もなく杜氏を継ぐ。しかし、その長男は、親の期待を一身に背負っては励み、親に負けない腕前を見せた。まさに努力の人だった。米の選定からも疎かにせず、何度も百姓家まで足を運んでは米作りにも関わるという、労を惜しまない人であった。

・ある日、その長男が、谷山村の百姓家を訪ねての帰り道、追い剥ぎに遭遇する。そこで、命の危機から身を挺して助けてくれたのが、あの勝五郎の父だった。

・女房の父は娘の花嫁姿を見る前に、流行病で急逝する。その後、「叔父さん」である父の兄の世話で、大きな酒問屋の若旦那に輿入れする。しかし、六年後、放蕩三昧の夫に見切りをつけ、三行半を書かせ、五歳になる一人息子を連れて、実家である叔父さんの造り酒屋に身を寄せる。

・女房の息子は、三歳の頃から、火事が好きで、五歳の頃には、火消し人足を見ると、喜んで後をついて行くやんちゃな子だった。そんな折々に、女房はキツく叱るのだが、どうしてもとねだられて、ある日、火消し装束の刺し子の半纏を作ってやった。半纏を着て喜ぶ息子の顔が全てだった。それから間もなくのこと、息子は火の見櫓から墜落して死ぬ。

・失意の中、「叔父さん」は見かねて、嫌がる女房に縁談を持ちかける。それが勝五郎だった。歳は自分が年上、しかも件の事情。女房は断った。だが、魚屋として毎日言葉を交わすなか、勝五郎は女房の人柄に心底惚れ込んでいた。そんな勝五郎のあまりの熱心さに、その二年後、ついに叔父さんが間に立って祝言をあげたのだった。

2014年11月19日水曜日

落語研究13 芝浜1 勝五郎の来歴

男は魚屋。漁師の三男として生まれ、家を出て棒手振りの魚屋となった。女房が谷山村(現在の目黒辺り)の小作の長女であったため、商売モノの魚を売らずに残しては、谷山村の女房の実家に届けていた。

・ある日、そんな帰り道、羽織姿の男に遭遇する。羽織姿の男は四人の刀を持った無頼漢に追われて、男に助けを求めた。やむなく男は天秤棒で応戦するが無力だ。そこにどこからか武士が現れ、斬り合いとなった。結果、武士はかろうじて勝ち残るが、かなりの深手を負った。

・息絶え絶えの武士を、なんとか武士の家まで二人で運ぶが、赤子を抱く武士の女房の姿を見ると、武士は「女房子を」と言い残し、その場で事切れてしまう。武士は、忠心から藩の不正を暴いたがために藩を追われた浪人だった。

・残された武士の女房子を二人は助けていたのだが、間もなく武士の女房は病で急逝する。残された赤子は男が引き取った。

・二十年の月日が流れた。男は、人望と腕前で、魚屋の株仲間の世話人として奔走していた。

・そんなある日、男が、たまたま佃に出掛けていたとき、お城から、急に献上の命を受ける。殿が珍しい魚はないかとのことで、芝にも命が下ったのだ。応じたのは無知な配下の魚屋だった。たしかにその頃では珍しいアオブダイを献上してしまう。間の悪いことはあるもので、お毒味役がその魚で食中毒を起こす。折からのお世継ぎ騒動と相まって、大事件となる。男は責任をとって自害した。

・その頃には、件の赤子はすくすくと成長し、魚屋としての技能を十二分に身につけ、独り立ちし、所帯をもって早四年が経っていた。そう、これが勝五郎である。

・男の遺書から、男は「育ての父」であり、「実の父」は、かの武士であったことを知る。

・それからというもの、勝五郎には酒と博打に明け暮れる日々が続く。ただ、勝五郎は女房を実に大切にし、「買う」遊びだけはしなかった。

・日に日に不条理故の自暴自棄は押さえられず、勝五郎は酒と博打で堕落していった。ときおり、亡き父の形見の包丁を、蕎麦殻から抜いては涙して。

2014年11月18日火曜日

落語は花かな

落語では二人以上の会話がほとんどです。これを演劇の舞台で役者が台詞として語るとします。そのとき、一人の役者が台詞を語り終えた後、続いて、相手役が台詞を語っている間、役者は沈黙しているか、あるいは小芝居を打っているか、いずれにしろ、役中人物から自らの意識は、多少なりとも離れているわけです。そして、また自分の番が回ってきて、自分の台詞を語る段になって、再び役中人物として、演技するわけです。舞台上の役者の意識活動は、このように間欠的、断続的、あるいは多面的、多角的な性格を持つと言えます。

・これが落語では、物理的に、台詞の無い時間が極めて少ないため、舞台上の役者のように、断続的な演技への取り組みは出来ません。それは、たとえば、次の演技への備えをするとか、相手役の動きに対しての反応を用意するとか、自分の内側から沸き上がってくるモノに集中するとか、それは様々ですが、落語には、物理的にそんなヒマは無いのです。落語では、落語家に、常に役中人物としての意識の連続性が求められます。

・その上で、落語家には多面的、多角的な意識活動が必要なのです。

・こんなことが実際、可能でしょうか。

・思考はおよそ、言語を媒介にして展開していくモノですが、それだけでは、この場合、不十分なのは明らかです。きっと、落語家には、言語によらない、巧みな表象能力を備える必要があると、思われます。

・表象能力とは「思い浮かべる力」と説明されますが、落語では単に表象するだけに停まらず、その表象が、演技の進む道を、描いていかなければなりません。

・落語家は常に、一歩も二歩も先の、自ら歩く道を、自ら、描いて歩んでいくのです。

・それを可能にするためにも、言語に呪縛された意識の下に、作品の種の全てを埋めてしまうことが必要でしょう。

・そして、落語家は、その種を、高座の上で、芽吹かせ、花を咲かせるのです。

2014年11月17日月曜日

2014年11月13日木曜日

落語は話芸かな

「相手が自分を好きか嫌いか」は常に悩みの種です。ですから、友達にそんなことを相談されることもあるわけで。
しかし、友達から「こんなこと言われちゃったんだよ、どう思う」なんて尋ねられても、その言葉からだけでは、およそ気持ちを測りきれないので、まったく、なんと答えて良いか困ることがあります。
「嫌い嫌いも好きのうち」なんて言いますし、なんとも、判りにくいったらありません。
このように、言葉は実に頼りない、弱いモノです。
これが伝聞で無く、本人の言葉だとしても、例えば電話のように、言葉が声として耳に届いても、その音声だけからでは、気持ちを理解するのに十分とは言えないでしょう。
やはり気持ちは、言葉よりも、表情、目、態度から伝わる事の方が、格段に強いと思います。
「目は口ほどにものを言い」、「目は心の窓」などの言葉の通り、頭で生まれた気持ちが表れやすいのは、やはり、目でしょう。

・「話(はなし)とは、単語の連続から成る、一連の情報、ないし、その情報伝達の様式・行動。」と書かれています。テレビのニュースはその代表ですね。アナウンサーがニュースを読み上げます。 Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(どうして) How(どのように)がニュースにおける情報伝達で、ニュースはそれでいいんです。ニュースでは、その誰という登場人物の心情を理解する必要は、およそありません。ですから、アナウンサーという仕事には、内的精神を考察して表現する努力は、必要ないと言えるでしょう。ですから、ニュースを読み上げるアナウンサーのような人は、普段の生活で、隣に居ることはありません。もしもそんな人が話し相手だったとしたら、気持ちが伝わらない会話になるわけで、気持ちが伝わらないどころか気持ちの悪いモノになってしまいます。「何考えながら話してんだろう。ほんとはどう思ってるんだろう。」と思わず相手を訝しんでしまうこともあるでしょう。日常の話ではそんな5W1Hは二の次です。

・そう、話しているとき、最も伝えたいことは、気持ちです。

・そこで「話芸」を「気持ちの修練された表現」と言い換えると、落語の本質がうっすらと見えてくるような気がします。

・頭で生まれた気持ちが表れやすいのが目なら、気持ちを伝える落語は、目で語るべきなのでしょうか。語る側から見ると、確かに目が最初に気持ちを表すモノですから、そう思いがちです。しかし、見る側、お客さんの側から見たとき、目の演技はあまりよくわかりません。では、何が一番お客さんから見て、気持ちが解るものでしょう。

・そうです、表情です。語る側からすると、目の次に来る表情こそ、お客さんに伝わるモノなのです。ですから、目で表現して、それから表情を表現するという流れでは、もっさりとしたキレの悪い演技になりがちです。人物や気持ちを切り替えるとき、まず、表情をしっかり替えることが大切ですね。実はこの表情の要が口角です。まあ、話しながら口角の位置を変えるというのは、なかなかに修練が必要で、まったく出来ていない僕にとっては目標の一つです。なにより、「口は目ほどにものを言う」のですから。

・そして、一連の体の動きと繋がっていきます。

・落語を音楽に例えるならば、言葉はドラムとベース。その上で、表情、目、体が奏でます。そしてお客さんの合唱隊の明るい歌声と共に、劇場内を包むのです。

2014年11月12日水曜日

落語研究12 居残り左平次12 左平次の意識2

④いよいよ旦那というボスキャラとの対決だ。旦那にしんみり語られた後、渡世人の体を作るが、実は少なからず旦那の気持ちに感動し、感謝に礼を返し、失礼と迷惑の数々を詫びるが、本来の目的を思い返し、首を振って自らを律して、旦那を欺す。

⑤外に出て、安堵し、思わず唄が出る。

⑥若い衆に世話になったと礼をする。
若い衆に「あんたの仕事、ちょいとまねさせて貰ったが、見た目と違ってきつい仕事だな。うん、よく頑張って偉いよ。まあ、おれもこれから頑張るから、お前さんも体に気をつけてな。」

「いのさんこそ。おっと、そういえばいのさん、旦那が捕まらないようにって心配してたぜ。手配されてるんだってな。そういや、お前さん、ほんとあ、なんて言うんだい。なんて名で手配されてんだい。」

「名前かい、そうさねえ、左平次とでも呼んでくれ。でも、手配はされてねぇんだよ。そうかい、旦那がねぇ。しんぺえしてくれてるたぁ、ありがてえ。いやぁ、旦那に言ってくれ、あれは全部嘘だってな、おらあ盗みなんかはやってねぇ、わりいが、ああ言ったのもみんな仕事なんだってな。オレの仕事は盗みじゃなくって、『いのこり』なんだよ。これが仕事さ。いや、嘘をついたなあ悪かったが、ほんと助かったんだ。ただな、旦那にぁ申し訳ねぇと思ってる。倅のように目をかけてくれたもんなぁ。感謝してるぜ、言ってくれ、かならずこの恩は、いつか戻って、きっちり返させて貰うってな、それじゃな、あばよ。」


2014年11月11日火曜日

落語研究11 居残り左平次11 左平次の意識1

・左平次の意識を整理して、意識下に左平次の意識を漬け込みたいと思います。ただ、それにはちょいと時間が足りないのですが。でも、まあ、今回は間に合わなくとも、来年には漬け上がってくるものと思います。

①左平次は初犯です。吉原での出来事から学習しての犯行です。ですから、焦燥感はありますが、左官仕事の経験から、一発仕上げの度胸はついています。また、吉原の経験から、相対したときの力の抜き加減も心得ています。

・それでも、最初の若い衆との対面では、ついつい「呑み込んでやろう」という気迫が出てしまいます。

②しかし、座敷に上がった後は、「これじゃいけない、落ち着け」と自分に言い聞かせ、遊び人の体を創ります。さらには、部屋の様子を褒める余裕をも見せます。もちろん、「うまくいくかな」という不安は常に付きまとっています。そのあたりを語尾で微妙に表現したいところです。

・若い衆には威圧する形を作って見せたり、気取って、「どうだい、俺様はな」といった形を作ってみせたりして、若い衆に「この客はいい客だ」と思わせようと頑張ります。ですから、「ほんとですかい」という若い衆の「勘ぐり」にはきちんと否定します。ただ、初めてのことなので、ついつい、焦って強く否定してしまいます。その時になるとあまり余裕がありません。ですが、その後、若い衆が「わかりました」と信じたらすぐに、ほっと余裕が出て、「うーん、そうだなぁー、なにがいいかなぁー」と安心してゆっくりとした調子で注文します。

・ここは焦りと余裕が交互に全身を覆います。

・「勘定をしたいんだけれどー。ないんだよ。」というところは、軽く会釈をしながらすまなそうにします。威張って言い放つより、「ないんだよ」ですっと力を抜く方が落語的であり、くわえて、左平次の後ろめたさを表現できると思います。

・よしさんとの会話は強く焦りが出ます。そこで、「ここが勝負」と力強くしっかりと発言します。そして、「えー、アンドン部屋はどちらでー。」以降は、勝負に勝ったという歓びから、余裕で浮かれて楽しげに声も高くなります。

③「あなたがかっつあん、やっぱりねー。」からは注意して浮かれずに、じわっと下から勝っつあんに、悪い相談を持ちかけるように言い寄ります。そして、酒を飲んでからは、次第に我を忘れ、声が高くなっていきます。さらに、ご祝儀を貰ってからは、ただただ、自分の嘘のなかに浸りきって、最高潮に盛り上がります。一直線に高揚感を見せます。

2014年11月7日金曜日

「野良スコ」と「水曜どうでしょう」に思う

「野良スコ」は2013年6月2日に内山勇士さんが「紙兎ロペ」の制作から離れての後、同年9月より制作しているアニメーションです。葛飾区が舞台です。現在、テレビ朝日系「musicるTV」内にて放送中の他、 2014年7月より「109シネマズ」18劇場にて「109シネマズSHORT MOVIE」として毎月新作を幕間上映中です。来月12月にはDVDの発売も予定されています。

「水曜どうでしょう」は1996年10月9日に放送を開始した北海道テレビ放送(HTB)制作のバラエティ深夜番組です。レギュラー出演者は鈴井貴之さんと大泉洋さん、ロケ同行ディレクターは藤村忠寿さんと嬉野雅道さん。基本的にこの4人が無謀な旅をしてその模様を放送する番組です。レギュラー放送は2002年9月に終了しましたが、再放送の『どうでしょうリターンズ』・『水曜どうでしょうClassic』、そしておよそ数年に1回のペースで『水曜どうでしょう』の新作が撮影・作成され、北海道での本放送開始を皮切りに順次放送されています。加えて、番組を再構成・再編集したDVD『水曜どうでしょうDVD全集』も発売されています。

・「野良スコ」の「musicるTV」の放送は今週までで26回を数えます。どれも甲乙付けがたい出来ですが、その中でも#01「バグパイプ」、#06「ペットボトル」、#09「26時」、#11「246」、#13「起床」、#19「扇風機」、#20「土日ダイヤ」、#23「待ち時間」、#24「ダメージ」、#26「ドライブ」の仲間達のエピソードには素晴らしいモノがあります。

・「水曜どうでしょう」がこれほどの支持を集めている理由は様々考えられます。企画、人柄、展開、企業努力などなど。ですが、なんといっても一番の理由は彼ら四人の「あ・うん」の関係性にあるように思えます。そんな四人と一緒に旅をしている感覚。ただただ流れる車窓の景色と笑い声。そこに失われたかもしれない、望ましい仲間達と共に居る歓びを、味わうことができるのです。

・ですが、そんな感覚を覚えるようになったのは、かなりの回数を見てからのことです。彼ら四人のことがなんとなく身近に思えてからのことでした。

・ところが、「野良スコ」の上記の仲間達のエピソードでは、そんな感覚がすんなりと味わえてしまいます。まさに素晴らしい出来と言えます。

・この違いはどこからくるのでしょう。そう、なにより、両者の大きな違いは、実写とアニメーションという点です。しかし、理由はその点だけではないように思えます。

・「野良スコ」の声は全て内山勇士さんが一人で、機械を使って音声を変えて演じ分けています。また、多重録音で、幾重にも重ねて制作されています。一方で、当たり前のことですが、「水曜どうでしょう」では四人の別々の人格が存在しています。

・「仲良し」を表現する上で、「野良スコ」の手法は、何よりも、役中人物の「あ・うん」の関係性を容易に作れる点で有利です。なぜって、お互いに自分自身なんですから、これ以上に解り合える関係性はありません。そこには二面性もありません。ですから、見ていて、「いや実はそう言っていながらも、ほんとは違うんじゃないの」などという疑問は湧きにくいわけです。

・ここで落語に目を向けてみましょう。落語も「野良スコ」と同じく、一人で関係性を創っていきます。

・そうなんです。ですから、落語は、まさに、「仲良し」を表現するのに最適な芸術なのです。これが漫才のように二人になったとたん、「仲良し」の表現をしようものなら、そこに、そこはかとなく危機感が漂ったりすることもあります。もちろん、漫才でも多人数の芝居でも、仲睦まじさをすばらしく表現しているものもありますが、その容易さといえば落語に勝るモノはないでしょう。

・ですから、なにより落語を創っていく際に、大切にしなければならないのは、役中人物達の様々な関係性のなかでも、特に、「仲良し」の関係性であると言えるのかもしれません。

・さらに高いところから落語を見わたせば、人間関係の本質は「仲良し」であると、落語は望んでいるようにも思えます。

2014年11月6日木曜日

落語研究10 居残り左平次10 第三分析2

【場面】
①白壁町の掛け茶屋
三人はナカ(吉原)の馴染みに会いに行くモノとばかり思って、一張羅の着物に帯と支度して左平次に会いに来る訳。
・三人は『吉原に行こう』。
・左平次は『品川に行こう』。

②二階座敷、その夜
・三人は『馬を連れてでも兄貴と一緒に帰ろう』。
・左平次は『三人を早くに帰して居残ろう』。

③二階座敷、翌朝、午後3時半、翌々朝
・若い衆は『勘定を済ます』。
・左平次は『勘定を延ばす』。

④良しさんと布団部屋へ
・良しさんは『勘定を済ます』。
・左平次は『居残りを納得させる』。

⑤勝っつあんの座敷
・勝っつあんは『見世に文句を言いたい、その後、もっと左平次に持ち上げて貰いたい』。
・霞は『とっとと邪魔な佐平次を追い出したい』。
・左平次は『機嫌をとりたい』。

⑥一階奥座敷、旦那の部屋、御内証
旦那は左平次のことを「如才なく居残りを続けるとはただ者ではないな、若い衆として働いてもらってもいいぐらいだが、それでは見世の連中にケジメがつかない」と思っている。
・旦那は『穏便に左平次に帰って貰う』。
・左平次は『路銀と着物を頂く』。

2014年11月5日水曜日

落語研究9 居残り左平次9 第三分析1

・「立派な人が悲劇を創り、愚かな人が喜劇を創る。」とギリシャ時代から言われているそうです。たしかに一面の真理と言えるかも知れません。なるほど、立派さを貫いたから悲劇になり、愚かさを改めないから喜劇になったのでしょう。

・しかし、どちらも改めないで貫いたことという点で、両者に凡そ大きな違いはないように思われます。そう考えると、悲劇と喜劇は、例えれば、ヒラヒラと舞う紙の表と裏。実は同じモノ、見ている部分が違うだけのモノのような気がしてきます。

・落語には多種多様の笑いがありますが、その中でも落語特有のおかしさと思われるものは、まさにそのヒラヒラと舞う紙のようなおかしさなのかもしれません。

・第三分析は、いよいよ落語として話をするうえで、落語らしいおかしさを創り出す、そんな「改めずに貫く」点を、全体と場面毎に考察していきます。

【全体】居残り左平次という話

・全編を貫いている左平次の信念は親への忠義です。その根っこには「母の恩に報いたい」という気持ちと「父の無念を晴らす」という強い意志があります。ゆえに、他で稼ぐことなど考えることなくこの旅籠に執着するのは、単に金銭のことではないわけです。しかし、旅籠を潰してやろうとまで考えることはしません。みんなそれぞれ必死に生きている事は左平次自身がよく知っているからです。総てやむなくそうなった訳と理解しています。ですから、左平次の目的は「一矢報いたい」です。なにより旅籠に「やられた、損した」と思わせたいわけです。そのため、左平次は「しっかり騙してやるぞ」という軸からぶれることはありません。

・悲壮感ただよう左平次の心には、一方で享楽的な本質があります。また、それこそが原動力になっています。おそらく、「自分が楽しめば楽しむほど、後の旅籠の落胆は大きいだろう。」と踏んでいたのでしょう。

2014年11月4日火曜日

「めぐり逢い」のケーリー・グラントに思う

『めぐり逢い』(An Affair to Remember)は、1957年制作のアメリカ映画です。主演はケーリー・グラントとデボラ・カーです。お話はプレイボーイの画家ニッキー(ケーリー・グラント)がオーシャン・ライナー乗船中にテリー(デボラ・カー)と出会うことから始まります。お互いにすでに婚約者がいながらも、恋に落ちる二人。6か月後にエンパイア・ステート・ビルディングでの再会を約束して二人は別れます。
婚約者と別れ、約束の日、ニッキーはエンパイア・ステート・ビルディングに向かい、閉館までテリーを待ち続けますが、テリーは現れません。実はテリーは約束の場所に急ぐ途中で交通事故に遭ってしまったのです。
テリーの怪我の状態は深刻で、この先車椅子での生活を余儀なくされることになります。ニッキーの重荷となりたくないと思ったテリーはニッキーとの再会を諦めます。そして、いろいろあって、クリスマスの日、ついに再会を果たすのですが、その時のケーリー・グラントの演技が素晴らしいのです。

ある日テリーを想って書いた絵を車いすのご婦人が購入したと画廊の主人に聞かされていたニッキーは長椅子に横たわるテリーがその夫人であることに気づき、次の間の扉を開きます。アメリカは扉が内開きなので、正面に飾ってあるその絵が幕を落とされたように現れます。日本は外開きが多いのでなかなかこうはいきません。

ケーリー・グラントはそのとき、開ききったその扉に背中を預けて、総てを理解して絵を見つめ、次に、自らを恥じるように下を向いて置き所のない気持ちを見せ、テリーの愛を確かめるようにもう一度絵を見つめ、そして込み上げる涙をこぼさないようにするかのように目を閉じます。

ぼくが言うのもおこがましいのですが、これこそ涙なしには見られない感動の場面です。

・このケーリー・グラントの演技は自分の感情に浸る事を能動的に演じた見事な例と言えると思います。
ときおり、この場面のような、受動的に感情を表現する演技が求められることがあります。
そんなとき、観客に感動が伝わらないことがあります。
その原因を考えてみると、そのひとつに、演者が自分自身の感情に浸ってしまい、また、それこそがよい演技だと勘違いしているということがあるように思います。

・役中人物の受動的な心の動きを、役者の能動的な行動で表現することこそが感動を観客に伝える術なのではないでしょうか。
役者が感動していることだけでその感動を観客に伝えるのは難しいと思います。
感動を観客に伝えるためには、役者自らが役中人物の感動に浸らないようにすることが大切でしょう。
感情に浸っていたのでは、思うように動けないばかりか、ときには、まさに感情に溺れかねません。
それは感動を観客に伝えるどころか、観客から見れば白けた滑稽さにしか映らないかもしれません。

・落語の人情話などで陥りがちな、ときとして、観客が覚える、見るに堪えないあの気恥ずかしさの理由はまさに、この内的感情を外的表現に置き換えることの失敗にあると思います。
また、それが成功している演技こそが素晴らしい演技なのだと思います。

落語研究8 居残り左平次8 第二分析3

⑦一階廊下
-[若い衆、二郎]
--・若い衆、良しさんに話している。左平次はよく働いて助けて貰ってるが、こっちの実入りが少なくなって困る。いい奴なんだが迷惑だ。旦那に頼んで帰してもらう事にしたと。

・狙い通り近頃は若い衆達に迷惑がられていることを感じていた。廊下で若い衆に声を掛けられたときはいつものお仕事と、上機嫌に返事をするが、旦那が呼んでると聞いて、「いよいよ追い出される時が来たか。きっと、いままでの稼ぎを取り上げられ、馬を付けて追い出されるに違いない。かねての支度通り、尻をまくって啖呵を切って、親分筋に顔が利くと脅してやるぞと勇んで御内証に乗り込む。

⑧一階奥座敷、旦那の部屋、御内証

・当初の計画はここで脅して路銀をせしめて出て行くつもりだったが、旦那の人柄に触れ本来の良心が目覚める、計略を忘れて素直に旦那に対応するうち、いつの間にか望んでいた方向に事態は展開していく。

-[旦那]
--・若い衆の手本のような働きぶりを傍から見るたび、これが息子がだったらなと思う。左平次と同い年の息子は家を飛び出したっきり行方知れずだ。

・旦那の感謝の言葉と慈悲に触れて、「お前さんのことを心配している方もいらっしゃるにちがいない。早く安心させてあげたほうがいい。」との旦那の言葉に、母を想い、旦那の姿に重なる父の面影を見て感動し落涙する。

・そして、父に甘えたい気持ちが湧いてくる。もう少しここに居ようと思い、お尋ね者だから外には出られない、もうしばらく居させて欲しいと言う。

・するとこんどは、それじゃよけい居られちゃ困ると路銀を渡され、帰らないわけにはいかないと決心し、ではと、着物をねだる。

・別れの言葉には、感謝の気持ちがこもる。

⑨旅籠を出ての辻角

・勝ち戦の快感に酔うも、敗軍の将を気遣う。

・若い衆、二郎に、旦那がいい人だと、だから大切にしろと、また、いい人にはいつかきっといいことがあるから心配するなと伝えてくれと言い、「この恩にはいつか報いたいがな、ほんと世話になったありがてえ。おっと、お前さんにも世話になったな、そうだ、お礼代わりに教えとくよ。実はな、・・・、あばよ。」と正体を明かして去る。

2014年11月3日月曜日

落語研究7 居残り左平次7 第二分析2

●ここで第一分析と付けたものは主に話を外側から、客観の五感から考察したものです。つづく第二分析と付けたものは主に話を役中人物の内側に潜り込むようにして、役中人物の五感から考察したものです。第二分析の目的は役中人物の考えを明らかにするばかりでなく、なにより大切な役中人物の感動を捉えることと考えています。

④二階座敷、翌朝、午後3時半、翌々朝

・海が白んでくる頃に目が覚めた。酔ってはいるが正気だ。昨夜は上手くいった方だろう。若い衆もおばさんも芸者達も皆俺達が派手な遊び好きの金回りの良い連中と思っただろう。

・勘定ができないからと馬を付けられて帰されたんでは、むろんこの戦は失敗だ。だからまず、三人を早くに発たせ、一人になったところで三人を待つ体を作る。勘定をして帰ったんでは、「なんだ兄イはいないのかい、じゃあ、俺達も帰ろうぜ」とせっかくの好機を逃し、大きく儲け損なうぞと引き延ばし、勘定をさらに大きくしつつ、裕福な三人の存在を強く見世に印象づける。

・若い衆の「そうでしょうけど、しょうがないんです、なんせ御内証がやかましいもんでございますから」という言葉で、よし、こいつは「三人が金を持って俺を身請けに来る」ことを信じるに違いないなと踏んで、いよいよ勘定できない事を切り出す。さあ、ここが居残りできるか、馬を付けて追い出されるかの大勝負だ。

⑤良しさんと布団部屋へ

・勝った。やったやった、居残りに成功。感動だ。後は作戦通りに粛々と進めて、上手く追い出されるようにすることだ。

・そのためには奉公人に好かれながらも、居て貰っては迷惑な存在になる必要がある。

⑥勝っつあんの座敷

-[勝っつあん]
--・「なにやってんだここは、客をほっときやがって。」と半分ヤケ酒。そんなふうにくだを巻いている所に現れた左平次に八つ当たり。しかし、左平次のヨイショに都々逸に次第にご機嫌になっていく。

「男を惚れさす男でなけりゃ、粋な年増は惚れやせぬ」。

すっかり佐平次を気に入り、重ねる都々逸に有頂天。

「芝や金杉ゃ粗末にできぬ、末は味噌漉しょ下げどころ」。

(金杉は芝に隣接する町の名前、金杉11ヶ町。芝金杉と言われた。1964年(昭和39年)1月1日 - 住居表示の実施に伴い、本芝地区・芝金杉地区・芝三田四国町などをあわせて現在の芝一から五丁目が成立する。)

(「心配そうに煙管《きせる》を支《つ》いて、考えると見ればお菜《かず》の献立、●味噌漉《みそこし》で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯《ちゃとう》して、合せる手を見るにつけ、咽喉《のど》を切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。」 泉鏡花著 「湯島の境内」より)

(「しかも居候の若旦那は、まだまだ平常の不平を尽し切れず、いい若い者に●味噌漉を下げさせてわざわざ遠くの店まで豆腐を買いにやった不満なんぞをぶちまける。」 野村無名庵著 「落語通談」より

そんなところから、この都々逸の中味を考えました。

(芝金杉の男は大切にしなきゃね、だって最後は一緒に所帯を持つ男なんだからさ)

2014年11月2日日曜日

落語研究6 居残り左平次6 第二分析1

①白壁町の掛け茶屋

・さわやかな秋の昼下がり、客は5歳ほどの男の子を連れた婦人だけ。奥で団子を食べている。外の腰掛けで茶をすすりながら三人を待つ。見上げる空に父の面影と母の笑顔を見る。

②旅籠

懐かしく辺りを眺める。幼い頃遊んだ井戸端がそのまま残っている。隣家の漁師の倅で同い年の太助を思い出す。楽しかった過ぎし日々。父の苦悩。なにもかもこの旅籠がぶち壊したのだという思いがよぎる。それゆえ、そっけない若い衆の対応に無性に腹が立つ。

③二階座敷、その夜

・下足を脱ぎながら吉原に負けない作りに感心する。朱に塗られた手すりを伝って長い梯子から二階に。十六畳ほどもある広い座敷。床の間を真ん中にして四人がコの字型に膳を前に座る。入り口に若い衆。座ったことで少し落ち着いて、若い衆にいい客だと思わせる趣旨で話し始める。

・畳は表替えしたばかりのようだ。欄間には見事な鷹のすかし彫り。障子越しの潮騒が体を揺らす。磯の香りがしっとりと漂う。障子を開けると、海の闇からやって来る夜風が少し肌寒い。

・芸者が五人来る。三味線、太鼓で唄い踊る。お座付きから三下がり、都々逸、果ては甚句になろうという大騒ぎ。左平次は得意の奴さんを踊り、遊び慣れている体を見せる。一方、三人が貧乏くさい様子を見せそうになるたび、すぐに割って入りその場を取り繕う。

・三人に母親の病は知らせていない。旅籠から三人が出て行くまで、何かしら、余計なことをしゃべられないように伏せている。また、同じ理由から、起きたら直ぐに発てと指示をする。

2014年11月1日土曜日

落語研究5 居残り左平次5 第一分析4

⑪若い衆に呼ばれて旅籠の主人に会いに行く
【舞台】一階廊下。
【感覚】お座敷に呼ばれたと思い上機嫌。
【課題】客に取り入り、酒を呑み、ご祝儀に与ること。

-[若い衆]
--【感覚】祝儀が少ないのは左平次のせいと、不満でイライラしている。
--【課題】左平次を旦那の所に連れて行くこと。

⑫悪を気取って旦那を騙す
【舞台】一階奥座敷、旦那の部屋。
【感覚】いよいよ勝負という気持ちを抑えて脱力して臨もうという気持ち。人の良さそうな人だと見抜き、あえて芝居がかっての一芝居をうって甘える作戦を選択する。
【課題】旦那を騙して路銀と着物をせしめること。

-[旦那]
--【来歴】代々続く品川の米問屋をも営んでいるしっかり者。概ね米問屋の仕事で忙しい。子供は3人、長男はほぼ左平次と同じ年頃だが、親に反発して二年前に家を飛び出したっきり帰らない。左平次のようになってはし無いかと心配している。
--【感覚】献上米の支度がやっと終わり、役人からも何事も無く、ほっとしているところ。若い衆からの苦情で、これ以上の損害が出ないうちに追い返してしまおうと思っている。
--【課題】佐平次を追い返すこと。

⑬若い衆に居残り商売だと告げる
【舞台】旅籠を出てすぐの辻角
【感覚】まんまと成功したことの安心感から気が大きくなっている。
【課題】若い衆に居残り商売だと告げて逃げること。

⑭落ち
【舞台】一階奥座敷、旦那の部屋、御内証

-[若い衆]
--【感覚】左平次が捕まってないか心配している。しっかり者の旦那が騙されたことに驚き、いつも厳しい旦那に一矢報いてくれたと溜飲を下げる気持ち。
--【課題】騙されたことを旦那に告げること。落ちを言うこと。

-[旦那]
--【感覚】捕まっていないか心配している。裏切られたと知って口惜しい気持ち。
--【課題】左平次に騙されたと気づき口惜しがること。