千一亭志ん諒「火焔太鼓」第6回志ん諒の会 |
来週はスーパーボウル、6日月曜日朝8時から生中継。
誰もがきっと感じていることと思うが、録画して見るのと、ライブで見るのとでは違う。
HD録画で、ニュースを全く見ないで、ライブと同じ条件で録画を見ても、ライブとは違う。
それは、またまた当たり前のことだが、
録画は「今」では無いからだ。
録画は「今」では無いからだ。
録画を見ようと再生ボタンを押したときに、その試合は「○○試合」という作品を見る意識になっている。映画を見たり、演劇を見たり、講談を聞いたりするのと同じ意識だ。
生中継は「まだ出来上がっていない作品」だから違う。
そこには「今」を共有する意識がある。
そこには「今」を共有する意識がある。
落語の本来の姿はそれだろう。
寄席で「演目」が無い事の訳だ。作品を見るならDVDでいい。
寄席で「演目」が無い事の訳だ。作品を見るならDVDでいい。
落語は作品を演じるのでは無い。そのつど、作品を作り上げていくのだ。
一席一席が新たな作品作り。毎日の料理と一緒だ。だから何度聞いても美味しいモノはまた新しく美味しいのだろう。
「演目」を敢えて書かないのが本来の落語。
「落語は作品を演じるのではない、作品を作るのだ」
自分自身もそうだが、
自分自身もそうだが、
これこそが素人にありがちな落語への最大の誤解だ。